私にとっては世界で一人の大切な母。彼女への色メガネを手放すとき

私は、いま、自らにかけられた色メガネを捨てるための、旅に出ている。
かれこれもう、5年は続いている旅である。
色メガネ。捨てたい気持ちは、ある。けれど、捨てたら、自分がどうにかなってしまうのでは、という恐怖心もある。複雑。こう言っていいのか分からないけれど、たぶん、多くの人にとっては、壮絶。
私は都市部の下町に、36年前に生まれ、いまはその地元から電車で2時間弱の距離に住んでいる専業主婦である。その旅というのは、私が母を見る時にかけた、いや、母が私にかけた色メガネとの戦いなのである。
私の母は、地元生まれ地元育ち、地元で地元の先輩と結婚し、実家に歩いていける距離に住み子育てをする、古風な下町の専業主婦であった。
母が虐待環境で育ったのは知っていた。私が小さなころから、毎日のようにその生い立ちを聞かせてくれたから。実家や義実家との関係性も、当然のことながらうまくいっていなかった。
だから私は、子どもながらに「私がこの母を守り、立派に育てなければならない」という使命感に燃えていた。母の日や誕生日のプレゼントは欠かさなかった。成績も上位をキープした。母の負担になるような存在にだけは、なりたくなかった。
私は中学生になり、高校生になった。母が私を無視する日が増えた。友人との会合や地域の集まりには顔を出さず、スーパーと家の往復のみで、ほとんどの日は家にこもっているように見えた。私は家に帰りたくなくなった。気合を入れないと、玄関に入ってから明るい声で「ただいま」と言えなくなっていた。
何かの時に反抗して、「包丁を持ってきてもいいんだよ、それくらいの覚悟でこっちは子育てしてるんだ」と怒鳴られたこともある。自分は殺人犯になってもいい、と絶叫する母親を前にして、親を悲しませている自分を呪った。
家に同居していたはずの父と弟は、なぜか母とほとんど会話せずに済んでいた。
お友達とのけんかや先生に言われ困ったこと、進路。何も、ひとつも相談できずに毎日は過ぎ、私は父の言う通りの道に進み、教師になった。これなら親が褒めてくれるだろうと選んだ職業だった。
でも、私にはうまく仕事をこなすことが出来なかった。職場の上司に言われ、一人で受診して、「抑うつ状態」という診断書を病院からもらった私に、母は「おばあちゃんが、あなたのことを親戚に言うなって言ってるの。恥ずかしいからだって」と相談を持ち掛けてきた。困っているように見えた。私は「気にすることないよ」と母を励ました。
私が結婚するときには、「女のピークは今だからね。あとは坂道を転がり落ちるだけだから」とはなむけの言葉をくれた。
それでも、私にとっては、世界で一人しかいない、大切な母だった。子育てもうまくて(父は母をそう評価していた)、明るくて、すこし気分屋だけど、子どものときの逆境に負けずに生き抜いている、強い母。
でもどうやら、この色メガネを、私は、自分の手で捨てる時がやってきたらしい。
この色メガネのおかげで守られてきたものがあった、と思っていたけれど。というか、その存在に気が付いたのも、最近なんだけれども。
カウンセリングを受けて5年目にしてようやく分かったことは、私はただこの色メガネの力が自分に必要だと思い込んでいただけだった、ということだ。30数年分の過去を根気強く振り返って、子どもながらに少しずつ、一生懸命に練り上げた「幸せな家族」像を再構築しなおすのにはとてつもないエネルギーが必要だった。辛くても、なにがあっても負けずに立ち向かうぞ、という決意も、しなくちゃならなかった。
もしこれを捨てられたら、そこにどんな母がいるのか。どんな関係性を結べるのか、結べないのか。まだ私にはわからない。どんな結末になるのかも、わからない。
けれど、きっと私は、この色メガネを、捨てることになると思う。
それが、自分の未来をつくることだと思うから。
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