4歳の私が関東で経験した震災。単身赴任中の父が迎えにきてくれた

私は東京に住む18歳、高校3年生。今でも、あの日の記憶は心に深く刻まれている。
2011年3月11日、金曜日。14時46分。東日本大震災。
当時4歳だった私は、神奈川県にある保育園でお昼寝をしていた。
突然、地面が大きく揺れた。目を覚ますと、先生たちの慌ただしい声が聞こえ、友達の泣き叫ぶ声が響いていた。合図とともに、私たちは園庭へ避難した。寒空の下、パジャマのまま裸足で飛び出した私は、足の裏に伝わる冷たさに震えながらも、周りの騒然とした雰囲気に圧倒されていた。
揺れが収まると、教室に戻って着替えた。しかし、いつもと違う。電気がつかない。先生たちは落ち着かせるように声をかけながらも、どこか不安げだった。
一つの部屋に集められ、園児たちは固まって座った。ただ親の迎えを待つ時間が始まる。
一人、また一人と友達が親に連れられて帰っていく。私はその様子をじっと見つめながら思った。
「やっぱり私は最後なんだ」
いつもそうだった。朝は誰よりも早く預けられ、迎えはいつも最後。両親は仕事に忙しく、父は遠方に単身赴任中。だから、今日もきっとそうなのだろう、と。
しかし、そのとき。
「まき!」
呼ばれた名前に顔を上げる。目の前に立っていたのは——父だった。
驚いた。思わず息をのんだ。数ヶ月ぶりに会う父が、そこにいた。
後から聞いた話では、その日はたまたま金曜日で、赴任先から自宅に帰る日だったという。でも、地震で交通は混乱し、簡単に移動できる状況ではなかったはず。それでも父は、会社から歩いて4時間かけて、真っ先に私を迎えに来てくれたのだった。
本当は、泣きたかった。大きな声で叫びたかった。
でも、私はその感情を押し殺した。
まだ迎えが来ない友達がいる、待ち続けることの寂しさが分かっていたから。
園を出ると、私は黙って父に抱きついた。言葉にならない気持ちが、胸の奥から溢れてきた。
そこから、父と車で母を迎えに向かった。連絡は取れない。どこにいるのかも分からない。でも、父は「迎えに行こう」と言った。
家に何があるか分からないから、と食パンを一斤だけ掴み、車を走らせた。
道路は渋滞し、人の列が続いていた。
車が動かなくなり、父は「歩いて探しに行く」と決めた。確証なんてない。ただ、会えることを信じて。
どれくらい歩いたのか分からない。疲労が足に重くのしかかる頃、私は遠くの歩道橋に目を向けた。
たくさんの人の中でたった一人だけが輝いているように目に入った。
そこに——「パパ!ママだよ!ママがあそこにいる!」
叫んだ。でも、父には見えないと言う。
「ママー!ママー!」
何度も叫んだ。必死に。
そして、その声は届いた。母が振り向き、私たちを見つけた。
後で母に聞いた話では、そのとき、まるで周囲の雑音が消えたように、私の声だけが鮮明に響いたのだという。
ようやく家族が揃った帰り道、私は疲れ果てていた。それでも、食パンを頬張る。ジャムも何もつけていない、ただの食パン。
でも、その味は今でも忘れられない。人生で一番、おいしいと感じた食パンだった。
あの日、私は初めて知った。
「家族がそばにいる」ということの温かさを。
あれから年月が経ち、私は18歳になった。もうあの日のように、迎えを待つことはない。だけど、あのとき父が来てくれたこと、母を探しに行ったこと——それは、今も私の心の中に灯り続けている。
東日本大震災と聞くと、多くの人が津波や震源地の東北地方を思い浮かべる。確かに、そこには大きな被害があった。
でも、関東にも、私のように幼いながらに震災を経験した子どもがいたことを知ってほしい。初めて味わった恐怖、迎えを待つ不安、家族と再会したときの安堵——あの日、私たちも確かに震災を生きたのだと。
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