母に言われ続けた「お前なんて」。それでも、諦めなくてよかった

最近、絵を描くことが楽しい。毎日、ちょこっとした動物の絵を描いて、パートナーにラインで送ったりしている。
子供の頃から漫画やアニメが好きだったことや、身近に絵の上手い友達が多く、アニメのキャラクターをかっこよく、目の前であっという間にサラサラっと描いてしまう彼女たちへの憧れも手伝ってか、「絵が描ける人になりたい」は、私が死ぬまでに叶えたい夢の一つかもしれなかった。前々からちょこちょこ、イラストのようなものを描くことはあったのだけれど、特別上手いというわけでもなく、それに何となく、「絵を描く」ということ自体に腰が据わらないような……そんな感覚もあったのだ。
あ、上手くできない、ここどうやって描いたらいいんだろう?塗ったらいいんだろう?と思うと、途端に「わあ!できない!ダメだ!」と、頭の中がパニックのようになってしまう。そして、そのまま目の前で描いているものもぐちゃぐちゃに潰れていってしまい、「ああ、やっぱり私には絵を描くことなんて向いてないんだ、ダメなんだ、止めた方がいいんだ」となる。そうして、「上手くなるために練習する」だとか「練習の仕方を考える」「描き方を勉強してみる」「教えてもらう」ということも投げ出してしまう。
絵を描くことだけではない。他のことも、「できない」「分からない」と思うと、途端に「どうせ自分なんて」「センスもない」「何もできない」「無駄」という声が頭の中で聞こえ始めて、そこから先の思考も行動も邪魔しだす。
そうしてふと気付いたのが、これは子供のときに、主に母親から言われていたことだ、ということだ。
「あなたは反射神経が鈍いから、運動ができない」「あなたは数学が苦手だから、論理的思考力がない」「絵なんてお金にもならないことに時間を費やすなんて」「そういうことは一部の才能のある人にだけ許されているもの」。
妙に詳細にそれっぽく言ってくるところがタチが悪くて、腹が立つ。
確かに、私は反射神経が鈍い方かもしれない。数学だって苦手だ。絵をお金にできる人が、ほんの一握りの限られた才能の持ち主であることも重々承知しているつもりだ。好きを理由にそればかりやるのもそれとして、現実的な生活がその前にしっかりあるのだということももちろんよく分かる。それ以外にも、苦手なこともできないことも、直した方がいい性格もたくさんあることだって自覚していないわけではない。
それでも、彼女の中では、私という人間の持つ要素は全て、私という人間がしていることは全て、「ダメ」「バツ」としか存在しないーむしろ、揚げ足を取って重箱の隅を突いてでも、何とかして私のことを否定したいとでも言いたげなのだ。
こういう母親からの悪影響が、自分の人生に影を落とし続けていることはずっと分かっていたつもりだった。だからこそ、自分の頭の中の「お前はどうせセンスがない」「やっても無駄」に抗いたかった。それでも、「絵が描ける人になりたい」とはっきり胸に抱いてから、「絵を描くことが楽しい」と思えるようになるまで、毎日絵を描けるようになるまで、十年以上の年月がかかってしまった。
今も頭の中で、「お前なんて」の声は響き続けている。
それに、こうして改めて文章として整理してみると、母親が言っていたことを、パートナーや友達にもそのまま同じように感情や言葉や態度として向けてしまっていることにも気付いて、ショックだった。
「ああはなりたくない」「自分自身で生きたい」と常に考えて、努力もしてきているはずなのに、どうしても親という存在から離れられない自分が、まだまだ全然しっかりといる。
いつか本当の意味で、私が親から「卒業」できるときがくるのだろうか、と不安や恐怖を感じる毎日だ。
それでも、今私はちょっと自慢したいこともある。
「文章を書くなんてお金にもならないようなことを」とも言われていた。「論理的思考力に欠けるお前には文章を書く才能がない」とも。
けれど今、私は自分の書いたものをこうして採用してもらえて、掲載してもらえている。ほんのちょっとかもしれないけれど、それで謝礼も頂いている。
諦めないで良かったなあ。
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