「人生の起伏を起こすために子どもがほしいと思って」

高校時代の友人が、熱いアメリカーノを飲みながらはっきりした口調でそう言った。
まるで、昨晩が中華だったから今夜は和食を欲しているように、当たり前の前提だと言わんばかりの自然なものだった。

その日は、数ヶ月前に父親になった彼に出産祝いを渡すために声をかけて会うことになった。有名大学を卒業した彼は大手の金融系企業に就職し、キャリアアップのために数回の転職をしていた。順調に収入は増え、今では定期的に集まる高校時代のグループの中でダントツの高所得者である。

20代後半で結婚し、30代になって直ぐ第一子が誕生した。
昭和の理想像をそのまま体現するかの如く早々にマイホームを購入し、最近はインスタグラムに車購入を検討していることを発信していた。
前回会ったのは数年前の彼の結婚式で、私が招待された式の中で最も参列者が多かった。

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そんな彼と私の共通点は年々減り、今では朝に強いところくらいしか思い浮かばない。
その日は暫くぶりに新宿近くにある和食屋さんで朝ごはん定食を食べた。
食後の休憩として近くのコーヒーチェーン店に入り、彼の子どもの話から徐々に話が膨らみ、ふと漏れた発言だった。

確かに、以前何度か将来の話をしたときの記憶では、彼はどちらかというと子どもは欲していなかった。それよりもダブルインカムで世帯収入を上げていくことを望んでおり、何よりもお金にゆとりのある生活を望んでいた。
そのため、友人伝手に彼の配偶者が妊娠したと聞いたときは、多少驚きはした。
ただ、友人に言っていない別の彼の思いがあったのかなと思っていた。

しかしこの日彼の口から出た思いは、私に正真正銘の驚きを与えた。

彼はこう続けた。

「就職・転職・結婚・マイホーム購入・マイカー購入となって、考えられる人生のイベントが一通り終わっちゃったんだよね。そうすると今後の人生が日々の繰り返しだと思ってきて。⚪︎⚪︎(共通の女の友人)にそのことを話したら、『子どもは人生の起伏のためにいた方がいい』って言われて。それにすごく納得したんだよね」

私は動揺を隠すのに必死で、興味深いね、とだけ答えた。

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彼と別れたあと、私はひとり新宿の街を歩きながらひたすら頭を整理しようとしたが、ついには心の中によどみとして残った。
映画や本を読んだあとの残響のようなものではなく、文字通りよどみだった。

私は大学を卒業したあとに教員として働いた経験があり、そのあと大学院で研究をしている間は、教育相談員や児童相談所の職員として教育や養育の現状を生の声や出来事として目の当たりにしていた。

昨今では、自分の子どもを愛せない母親への詳細なインタビューをまとめたものや、毒親のもとで育った回顧録が書店で平積みされており、アカデミックな場にいなくても多角的に親になることを考えさせられる社会になりつつある。
しかし、まさか身近から親の人生を楽しくさせるために生命を誕生させるという一方通行な思いを聞くとは想像していなかった。そこにはまるで子どもが親の付属品とでも言うような、もしくは新しい趣味探しか将来のボケ防止のような、不穏な響きがあった。

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何がなんでも合理的でなければならない、言語化をしなければならない、だってそれが資本主義の合理性じゃないか。
子作りだって需要と供給のサイクルに入れなきゃ。
子育てはお金がかかるでしょ。自分の時間だって減る。ねえ、Time is Moneyの原則は知っているよね。
ちゃんと親になる意義の費用対効果って何か考えないと。
そうか、自分の人生に起伏というイベントを起こしてくれるわけね。
ふーん、確かに悪い話じゃないかもね。親になることで楽しみやら悲しみやらを与えてくれるんでしょ。
ちょっと待ってね……。それが供給、と。
まあ、ちょうど主要なライフイベントが終わっちゃったし……。こっちの需要もまああるかな。
うん。投資利益率は悪くなさそう。
よし、その話、乗った。

私の頭の中で誰かが雄弁に喋る声が聞こえた。
こうして私たちは、ある意味、逞しくも親になる選択をするのかもしれない。

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この46億歳の惑星の中で生きる私たちは、たった200年ほど前に説かれた理論に全ての事象を当てはめようとして今日も生きている。
綺麗に整理整頓できるこの考えは、私たちが生活できる理由づけをするだけでは事足りず、生命の誕生にまで口を出すようになったのだろうか。
もしかしたらこれが人間の強さの最終形態なのかもしれない。
生きていいよ、そう言われないと生きることも許されないのかもしれない。

2025年の国際女性デー。
人類の進化と資本主義社会を、胸に消えないよどみを抱きながら祝う。