深刻な「女のくせに」。権力者が言ったら「時代遅れ」と笑ってやろう

私自身は、まだ誰かに直接面と向かって言われた記憶はないように思う「女のくせに」。誰だって分かるはず、自分が言われたらいい気分はしない表現だと。
女性に限らず、○○のくせにや、○○なんだから、という言葉の背景に隠されているのは、発信者の偏見や固定観念。
○○のくせにの後に続く言葉を、想像してみる。
「女のくせに」でしゃばるな。口出すな。引っ込んでろ。家事もできないのか。
「男のくせに」泣くな。弱っちいこと言うな。耐えられないのか。○○が好きなのか。
「女の子なんだから」大人しくしなさい。静かにしなさい。礼儀正しくしなさい。お母さんの手伝いをしなさい。家事や料理をしなさい。
「男の子なんだから」泣かないの。守ってあげなさい。くよくよしない。外で遊びなさい。
こんなところだろうか。
具体的に言われるような言葉を想像してみて思う。
男=強い、元気、弱いもの(女)を守る存在。
女=静か、おしとやか、家のことをする、守られる存在。
確かに生物学的な身体の違いから、およそ体力があるなしなどはあるのだろう。科学的根拠のある得意不得意もあるのだろう。
これらを子供の頃に言われれば、それは男性として女性として子供としてあるべき姿を説く、鼓舞する言葉のようにも聞こえるが、大人たちの押し付けとも言えるかもしれない。
大人の場合はどうだろうか。これは私の偏見かもしれないが、こう思う。
「男のくせに」の時は大概、人間的に性格的に男性はこうあるべきという姿への偏見。
一方で、「女のくせに」は、女性の社会的地位が低い、知能が低い、守られる存在、劣っている存在という前提があった上での偏見ではないか。
昔ながらの男が働き、女が家事や育児をするという形態、考え方がこの言葉には見え隠れする。だからこそ、「女のくせに」は深刻だ。
昔から、身なりを整え、家庭で夫を慎ましやかに静かに、口答えせず支え、耐え、献身的なサポートをすべきという概念が、会社における、女性の事務職、非正社員、お茶汲み、受付嬢などに表れている気がする。決してそれらは、女性が得意だからというのではなく、華があるとか、見栄えの問題なのだろう。そして会社の経営や重要な役職は、男性が担うべきだと。
前職では、事務系の約8、9割が女性だった。でも部署のトップの部長はほぼ男性。女性陣は来客時にお茶汲みをお願いされる。飲み会の時には、上司のお膳立てをする。会議後の片付けは女性がする。
営業職だった私は、全体の中では少ない女性営業として、女性は珍しいと優しく受け入れてもらえることもあれば、頼りないとでも言うような態度をとられたこともあるし、会食でおじさんのお酒をつぐ、注文を率先して取る、取り分ける無言の圧を感じることもあった。
できる人がやればいい。向いている人がやればいい。そこに性別も年齢も関係ないと思う。
とはいえ、こう強気に言ってはみるものの、もしも自分が直接「女のくせに」とか言われたら、 すごく傷つくと思う。それだけの力、暴力性をこの言葉は持っている。
たまに政治家の女性議員、女性社長、女性役員、活動家の人を見ていると、共通して「強い女性」という印象を受けることが多い。そして、そういった人が何か男性の気に障るような、安いプライドを傷つけることを言うと、よってたかって「これだから女は」怖いだの、生意気だの、ヒステリックだのと叩かれる。社会的地位の高い女性に対する、一種の印象操作のようなものを感じることがある。
こういった女性に対して、女性の自分からしても強いというイメージや印象を持つというのは、そこが精神的にタフな女性しか立てない場所だったということなのか。もしくは、女性が強くならなければ、上がれない場所だったのか、とも思う。
「女のくせに」なんて言葉おかしいし、無くなればいい。今のご時世、立派なハラスメントだ。
特に力も地位も、権力もない私だけど、もしも身近で、比較的話しやすい相手が、「女のくせに」なんて言っていたら、「女とか男とか関係ない!」と強めに言ってやろう。もしも権力者がそんなこと言っていたら、友人や身近な人と「時代遅れ」と笑ってやろう。これからは多様性の時代。いつかそんな言葉を聞かずに済む日を夢見て、無力な私の小さな小さな抵抗を続けていこう。
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