母と協力してもその味にはならない。祖母がつくる卵チャーハン

2022年10月2日。他界した祖母の最後の姿を見たとき、"生命力の強さ"というものを感じた。77歳で天へと旅立った祖母は、生前明るくて器用な人だった。編み物と料理が得意で、花や植物を見るのが好きだった祖母は、私に沢山の知識を教えてくれた。祖母が作る玉子チャーハンはプロ顔負けの絶品で、実家に行ったときは毎回それを頼んで作ってもらっていた。
レシピを書いてもらい、母と協力して作ったこともあったが、祖母の味にはならなかった。焦げ目も一切なくパラパラとしたお米で、中華料理屋の味とはまた違う唯一無二のメニューだった。もう二度と食べることはできないが、今でも鮮明にその味を覚えている。
編み物では、様々なものを作ってくれた。棒針と毛糸で何かを編んでいる祖母を見るのが楽しくて仕方なかった。ソーイングの情報が書かれたノートを見ながら向き合っている姿が何だかかっこよく見えていた。私の誕生日には、手編みのマフラーをプレゼントしてくれた。
淡いピンク色の可愛らしいマフラー。世界で一つしかないそれを、沢山の友達に自慢していたことをよく覚えている。祖母の本棚には、花や植物の図鑑がびっしりと並んであった。古くて薄汚れた本ばかりだったので、どうも読む気にはなれなかったが、全て祖母の大切な本だったのだろう。庭や近所に咲いている花を丁寧に教えてくれた日もあった。沢山の好きなものに囲まれ、手先も器用に動かせる祖母に小さな頃から憧れを抱いていた。
そんな祖母が変わったのは、2019年の夏頃だった。私の名前が分からなくなったり、何も言わずに1人で外へ出かけてしまったり、明らかに様子が変だった。何だか嫌な予感がして、一気に色んな不安が襲いかかってきた。このまま別人のような人格になってしまうのではないか。怖くて怖くて仕方なかった。しかし、嫌な予感は的中するもので、徐々に祖母の心身は弱っていくばかりだった。祖父からの話によれば、何十年も暮らしている自宅の脱衣所が分からなくなったり、1人で家を出て、お金も持たずバスに乗車したこともあったそうだ。さらに、50kg近くあった体重もどんどん減っていき、40kg前後になってしまったという話も。
母と私は、週に一度は実家へ足を運ぶようにし、多くの手伝いをした。色んな不安と恐怖で押しつぶされそうになっていたとき、祖母の入院が決定した。正直、少しだけホッとした自分がいた。我々も壊れる寸前だったのだ。時々訪れる母と私でさえ辛かったのに、毎日隣で支えていた祖父の苦労を考えると、とても心が痛かった。
これからはお見舞いという形で祖母と会おう。そう思っていた矢先、世界中でコロナウイルスが大流行し、直接お見舞いに行くことが禁止されたのだ。限界を感じていたのは事実だが、直接会いに行けないとなると、やはり寂しかった。
その代わり、自宅からリモートで病院へと繋がる方針になった。画面に映し出されるのは、ベッドに横たわる祖母だった。言葉も上手く話せず、弱々しく何かを語りかけてくる。あんなにも器用に手先を動かせた人が、たった数年でこんな姿になってしまうのか。人間の儚さを感じた瞬間だった。
そんな生活を繰り返していくうちに、コロナも収束し、私もどんどん成長していった。祖母の容態は良くならなかった。そして、2022年10月2日。病院で静かに息を引き取った。病室から帰ってきた祖母の姿は、まるで一眠りついているかのような様子だった。
祖母が亡くなった10月2日。その1日前の10月1日は、祖父の誕生日である。これは必然か偶然の二択ではなく、祖父が歳を重ねるその日は、生きようと努力をしたのだろう。心身ともに強い女性だ。
ついこの間、母と久しぶりにチャーハンを作った。もちろん祖母の味にはならなかったが、とても美味しいものができた。一口食べると色んな思い出がよみがえってくる。私の憧れの女性は、とても器用な人だった。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。