「あと1年持ってくれれば」大叔父に見せたかった卒業証書

もしもう一度、この人に会えるなら。
素直な気持ちで思える人が、わたしには一人いる。それは2年前に亡くなった大叔父だ。
大叔父と聞いても、ピンと来ない人が多いと思う。自分との関係が祖父の弟にあたる人を大叔父と呼ぶ。もし兄だった場合は大伯父という感じに変わる。
大叔父というと固い印象を覚えるので、わたしが呼んでいた「マコんちゃん」という愛称で、このエッセイを書いていこう。マコトおじちゃんだから、そう呼んでいた。
マコんちゃんは、わたしの物心がついた頃から、車椅子に乗っていた。寡黙というわけではないけれど、物静かな人で音楽とタバコと映画とコーヒーと読書が好きな人だった。
下に落ちた物を拾うことができないから、マコんちゃんはマジックハンドを器用に使っており、ペットボトルの蓋が開けられなくても、ペンチで上手にキャップを外している自立度が高い人だった。
わたしが上京するまでは、大体の夕方を彼の部屋で過ごし、一緒に音楽を聴いたり二、三言葉を交わしたりした。いつも豆を挽いて淹れてくれるコーヒーが大好きで、わたしのために牛乳と砂糖を用意してくれる人だった。
そんなさりげない気遣いができる「頼りがないのが良い便り」というタイプで、彼の話をするたびに泣きそうになってしまうくらい、今でも大好きだ。
自分でできることは、なるべくやるマコんちゃんが変わってしまったのは、3年前の冬のことだった気がする。もともと、低血糖になりやすくて、気をつけて飴を舐めたり糖分を摂ったりと気をつけていた彼でも、どうにもならない時があり、倒れてしまったのだ。
その頃はまだ、しっかりとしたコロナ禍で、病院にお見舞いに行っても直接会うことはできず、オンラインで声をかけることしかできなかった。しばらくして別の病院に変わった時には、マコんちゃんはほとんど話せなくなっていて、「はい」か「いいえ」の意思疎通しか取れなくなっていた。
車じゃないと行けない病院だったので、両親の仕事が休みの時に、なるべく顔を見せに行ってあげたらなと思うしかなかった。
それぐらいしかできないのが、本当に辛かった。
少しして大学の卒業式の後、春休みに帰省して、卒業証書をマコんちゃんに見せてあげることにした。
その時のことは、今でもよく覚えている。
寝たきりで身動きも自由に取れないはずのマコんちゃんが、起きあがろうと手を動かして、わたしの卒業証書を持ち、涙を流していた。
わたしの学費を一部でも工面してくれていたのは、マコんちゃんだったから。奥さんも子供もいない彼は、自分の子供のようにわたしを思っていてくれて、使う予定もないからと貯金のほとんどを、わたしに使ってくれていたのを、大学に入る頃に教えてもらったから。
でも、マコんちゃんは夏を越えられないかもしれないし、冬はもっと厳しいとお医者さんから言われていた。
もともと神経の病気だったマコんちゃんは、大昔に当時の技術でも難しい手術をして、失敗して、汗のかけない体質になってしまったので、体温調節ができないのだ。
あと1年、マコんちゃんが持ってくれれば、大学院の卒業証書も見せられるはず。
そう、願っていた大学院1年生の9月頭。学部の夏期講習のアシスタントで授業を受けていたわたしに父から連絡があった。
「マコトさんが亡くなったので、実家に帰ってきてください」
頭が真っ白になった。
その場には後輩がたくさんいたから明るく振る舞っていたけれど、どうして良いか分からなかった。
喪服なんて持っていなかったし、どんな顔をすれば良いのかも分からない。
ただ、行きの新幹線でずっと泣いていて、帰りの新幹線でもずっと泣いていた。
夏期講習の先生には、「あなたの記憶の中で、心の中で、おじさんは生き続ける」という言葉をもらったけれど、わたしの大学院卒業を心待ちにしていたマコんちゃんは、もうどこにもいない。
あの部屋でジャズが流れることも、タバコの匂いもコーヒーを飲むこともない。
もしもう一度、マコんちゃんに会えるなら、大学院の卒業証書を見せたい。彼に誇らしく感じてもらえるような自分でいたい。
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