私らしさという言葉を語義から考えたくて、ネットで検索すると、私らしさとはありのままで生きることなどが出てくる。その一方、自分なんてないみたいな本も出てくる。ネットとは、表現とは不思議な世界だ。

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ふと我に返ると、私は高学歴、高収入を願う両親の元に育った。周囲の影響を受けて、受験塾に通い出し、受験と相性の良かった私は偏差値の高い高校、大学に進学して、国家最難関試験と名高い国家試験を2回受験した。ここまでは人生の挫折を知らなかった。自分が望めば望むだけの結果は得られなくても、せめてここには合格したいという場所は受かったからだ。

ところが、自分からやりたいと決めた国家試験受験に対して、途中から義務感を感じてしまった。勉強させられていると思ってしまった。進路変更をしようと考え、国家試験と関連の強い仕事をしたく、ある企業に就職した。そこから会社員になった後、なぜか思い通りに身体が動かなくなった。でもプライドが邪魔をして休めず、気づいたらドクターストップで仕事に行けなくなった。新卒で入った会社にはよくしてもらったのに、何もできずただ辞めることになった。

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昔から努力して「他人から認められる」ことで自分の価値を認めてきたのだろう。両親か教師か具体的には誰か分からないけれども...。それに気づいた後、自分の「やりたいこと」を形にしようとしても、他人と関わるとうまくいかない。いつものようにへりくだってしまう。そんな私に丁寧に接してくれる人にしか心を開けない。でもビジネスの世界では、報連相が必要だ。必要な相談もしないといけない。うまく人を頼れない。完全に会社員時代の私は追い込まれていたのだろう。

キャリアブレイクをしていた時には、かなり精神的に追い込まれていることもあった。身体が言うことを聞かない。やりたいことができない。いっそ全てを捨てて出家してみたいと思ってしまったこともあった。

また資本主義というお金をいくら稼いだかで評価されがちな世界も好きにはなれなかった。年収、地位で評価される世界は馬鹿みたいだとまで感じてしまった。でもこの世界に生を受けてしまったからには、お金と完全に離れることなどできない。生きていかないといけないから。それに国家試験受験をやめた自分からは逃げられない。途中でやめたという敗北感のような、同期に負けたかのような価値観から逃げることはできない。もしかすると、それからキャリアブレイクをしたのではないかとも思ってくる時もある。やめたことについては文字にまとめることでうまく整理できた。ただ「努力しなければならない」という焦りからは私はなかなか逃れられていない、そんな自分に絶望した。

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でもキャリアブレイク中には、かつて大学時代のようにやりたいことだけをやりたいだけすることを徹底した。仕事から離れて、自分と向き合う時間となった。読書に明け暮れたり、家庭菜園をしてみたりしている。童心というのは大事だ。土に触ると、昔芋掘りをしていた頃を思い出す。土は物理的には冷たいはずなのだが、なぜか暖かいと感じてしまうのはなぜだろうか。また芋掘りをしたくなってくる。泥だらけになってただひたすらにサツマイモを掘るのは楽しかった。ふと自然とふれあう中で、あれだけ嫌だった資本主義の良さにも気づくことができた。高学歴と高収入がなぜ評価されるのか、というこの社会の構造に納得できるかは別として、理解はできた。

この世界で私は成し遂げたいことがたくさんある。完全な資本主義社会というのは良さもあるが、デメリットもある。競争に負けた敗者を救う人が必要だ。私はかつて会社員時代に感じた違和感と向き合い、困っている人を救える人間になりたい。自分自身の時間を大事にしながら、私は生きていく。あと何十年生きるかは分からない。でも私の肉体から私の魂が消える時、この世に生を受けて良かったと思いたい。そのために今日は私が私を生きていく。