嫌いだった梅雨も工夫次第で好きになれる。あの失恋が教えてくれた

梅雨の時期の失恋が、1番心にくる気がする。
じめじめしていて、微妙に寒くて、ほぼ毎日雨だから傘を持ち歩かないといけなくて、荷物。なのに降りが強いと傘を差してるのに鞄や服の裾が濡れる。部屋干しの洗濯物、雨の日は謎に混む率が高いスーパー。どんよりグレーの一面雲。ぽたぽた、ざーざー、ずっと聴こえる雨音は鳴り止まない。
梅雨のきらいなところ、思い付くだけでもたくさん。
そんなところに失恋なんて加わったらもう、いつ晴れますか?て感じなのだ。
社会人になって2年目くらいだったと思う。
「別れたいんだよね」
重たい空気醸してるからなんとなく察してはいたけれど、こんなジメジメの梅雨に、ぶっ込んでくるのか、と思った事を覚えてる。
友人の紹介だったひと、積極的に会いに来てくれて、早くない?て思う程に結婚の仄めかしとかされて。優しくて、誠実で、仕事頑張っていて、出逢って短いけど尊敬するところが多くあったし、好きだなってきちんと思ってた。
別れたい、に対して、少し粘ってはみた。
気持ちが完全に離れたのなら諦めるけど、そうじゃないなら頑張ってみたい、とか。仕事が忙しくて会えないからという理由なら、いっそ同棲しようよ、とか。
現在のアラサーの私からすると、なんてしつこく未練がましく、ぶっ飛んだ提案してるんだ……と当時の若さを少し羨ましくすら感じる。
今はもう、そんなしがみつくことなんてできないよ。
まあ、それでも駄目だったので、初対面の出逢いからお別れまで側から見るととても短く、私にとっては濃い恋愛に終止符が打たれた。
当時の私は仕事もうまく行かず楽しくなく、その穴を恋愛で埋めようとしていたから、それも良くなかったんだろうな、と。
彼の家から帰る時、勿論雨で。梅雨の、あの独特の湿った香りを嗅ぎながら、ビニール傘差して歩いた。紫陽花を横目に、それを綺麗だなんて感じる感性を宿す余裕も無い。
失恋だけなら幾度となく。フることもあればフられることもあった。
でもなのに、人とのお別れは毎回心が苦しくて、慣れることは一生無い。
もう今後、何かが無い限り、会うことは無い。
その「何か」すら可能性は0に近く、お互いがいつか骨をどこかで埋めるその日までの生涯、何して生きているかすら知りもしない、恋愛の失恋とはつまりそういうことだと思ってる。
だから、私はここ数年、簡単に付き合うことをしなくなった。
大人になった今、とても慎重に。
「雨だから、気をつけて」
玄関先で、扉を閉める前言われたな。そういえば、いつも駅まで歩いて送ってくれたのに、お別れしたら本当に最後なのに、送ってくれなかったな。
いや、最後だからこそ突き放すことも彼の中で正解だったんだろう、とか。
彼の車の中の、少し濃いディフューザーの香りが好きだった。良い匂いだったから聞いとけばよかったな。
肌が私よりも白くて羨ましかった、笑った時の目尻の皺が好きだった。
「俺、女の子の好きなものとかよくわかんなくて」って、クリスマスにくれたAesopはラッピングが無く、箱ごと渡されて笑ったのを覚えてる。そういうところすら愛しかったけどな。
梅雨の空模様とリンクして、とても気持ちが滅入ってしまったあの時の恋愛。
少し経って、これからは、しがみつく恋愛をしないように、自分に矢印向けなきゃ、なんて密かに一念発起した。
ここ数年の梅雨時期は、可愛いお気に入りの傘と、雨仕様のパンプスを履いてる。
鞄や服が濡れたらタオルで拭けばいいし、洗濯物は部屋干し用の洗剤使えば良い香り。
雨の日のスーパーは特売が多くて、こちらのテンションを上げようとお店側が頑張ってくれる。
雨に濡れた紫陽花を綺麗だと思うし、梅雨の時期の旅行は風情があって良いなとすら思う。
外に出ないならお家で好きなもの作って、好きな映画観漁って。
今は、私は梅雨が好き。
嫌いなモノコト、好きになれるように工夫をすれば、失恋したって立ち直れる強さを、あの梅雨の恋愛は教えてくれた。
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