母に「大学に通ってほしい」と思う。この思いは優しさか押し付けか

私には尊敬してやまない母がいる。
人として根がポジティブで、時にはお節介なときもあるかもしれないが、周りの人と関係を築くことが上手。
私がどんな相談事をしても、一緒に向き合い、明快な答えをくれる。
自分なりの考えを持って物事の判断を行なっている。
パート先に楽しそうに通い、週3回程度働きつつ、家計も支えている。
家事も丁寧にこなし、常に家族にとって、心地の良い空間を作るために、誰よりも時間を使ってくれている(母に家事の負担を他のメンバーより多く背負わせてしまっているかもしれない点は、別問題であるため今回は割愛)。
そんなところで彼女に対してすごいと思う点はいくつもあるが、私が特に尊敬するのは
①(私がみるに)他人や社会に対して、善くあろうとしていること
②頭が良いこと
この2つである。
そんな母をみていると「今からでも大学に通ったら良いのではないか」という考えが最近よく浮かぶ。また、大学で学ぶことに適性をもった人なのではないかと感じる。
母は高校では理系コースを選択し、勉強も勤勉に行ってきたようだが、“時代”の価値観の中で、「女性は大学に行く必要はない」と家族から言われ、就職したそうだ。
その後は事務の仕事を中心にいくつかの職種を経験している。
働き続ける過程で触れた業務のなかで、色々な知識を身につけ、資格をもっている母をすごいと思う。
しかし、大学でジェンダーなどを学んだ私は、心のどこかで、母に大学で学んでほしい、という想いを持ってしまうのだ。
“時代”の価値観によって、影響され、触れることがなかった、学びの機会をぜひ手にしてほしいと思う。
一方で、この考えをもつ自分を一歩引いた視点から見ると、暴力的にも思われる。
母のサポートにより、勉強に集中できる環境を作ってもらい、大学・大学院と学ぶこそんな環境を得た自分は、母の選択に口出しをする資格があるのだろうか。
私が母に受けたサポートと同等、それ以上のものを提供できる確証がない中で、「大学に通ったらどう?」と提案することは、正しい優しさなのだろうか?
私が勝手に、母に「私が生きてほしい人生」を押し付けることにならないだろうか?
そんな考えが巡るのだ。
ただ私は、母の今後の人生が、多様な観点で、さらに豊かになることを願いながら、この問いにもう少し向き合っていこうと思う。
その過程では、母と同時代に生きた人たちにも思いを馳せながら。また、私たちの世代がありがたく受け取っている環境への感謝をもちながら。また今後自分たちがどんな“時代”としていきたいのかを考えながら。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
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