あの時好きな人と手を繋いだという事実が、私にとって唯一の救い

誰かを好きになって結婚して家庭を築く。結婚までいくことができたのなら、その恋愛は成功したことになる。というのは私の考えではなく、これまでに出逢った人の価値観である。
出逢いというのは、どうしても好きという感情と向き合うということになる。そう思うのは、少し強引ではあるが、出逢って結ばれるというシンプルな過程のなかに、他人には言えないような感情が絡み合っているのだ。
22年間生きてきた中で、好きです、といった人は、たくさんいるというわけではない。はっきり答えると、1人。たった1人だというと、照れくさいけれど、1人。
だって私は不器用で、感情がすぐ顔にでやすい。浮足立つくらい嬉しいとき、ちょっと嫌なことがあってムスッとしたときや、驚きすぎて顔が固まったとき。そうした心の動きを丸く包んでくれる存在が、私は好きだ。人、と書くと照れくさいので、ここでは「存在」と書く。
しかし、そもそも好きな人って何だろうと思ったりもする。好きな人という関係でおさめたくない人のことを、愛する人というのだろうか。「好き」と言わなくても、その人の力になりたい、とか、役に立ちたい、頼ってもらいたい、と思える関係。本当に素晴らしいなあ、と私は心をキュンキュン鳴らさずにはいられない。
15~16歳のときに忘れられない人と出逢った。忘れられない、と語っている時点で、今も変わらず、その人を脳裏に思い浮かべるだけで、「好き」なのだろうなあ、と自分で思う。勝手に想っているといったほうが正しいだろうか。
365日、ずーっと想い続けていたら、その人が自分とは違う誰かのことを思っていたとしても、幸せで溢れていく。ときに、どうしてこんなにも幸せなのだろうか、と不思議に感じるくらい、自分でも訳が分からなくなるくらい、ただ好きが溢れていく。
なんだか恋愛ソングの歌詞を書いているようだが、これが私にとって精いっぱいの素直な気持ちである。
うずうずと波打つ鼓動と、頭から離れることのない好きな人の声と体温。体温というのは、手から感じ取った温もりである。たった一度きりだったが、高校1年生の春、手を繋いだ。好きとか嫌いとか、そんな感情を通り越して、一生忘れられない温もりだったし、後にも先にもこんなことはないのだと思った。
この先、どんなに時代が移り行くとしても、譲れない宝物みたいな時間。
もし、16歳の私に戻れるとしたら、もっと触れていたいと思うばかりに、その手を離さないかもしれない。それは16歳の私ではなく、22歳の私が「離すな、その手を引っ張って自分の世界に連れていくんだ!」と叫んでいるのだ。
22歳の私が、16歳の私を操っている。まったく現実的ではないが、人生、タイムスリップはできないものなので、これは私の心の中で繰り広げられる妄想で完結していく。けれど、もう一度だけ、手を繋ぎたい。
優しい人だったら誰でもいい、というわけではない。16歳のときに出逢った、一緒にいると運命というものを信じてみたいと思えた人と繋がっていたい。そうした気持ちを、ごまかし、上手くやり過ごすということはできない。何年経とうが出逢ってしまった限り、今の私には、難しいのだ。
そうして、人間というのは誰かを好きになると、ときに周りが見えなくなる。私のように10代の頃に出逢った人と今も繋がっていたい、と気ままに想う人もいるかもしれない。その一方で、振り返ることのない恋を抱えた人も少なくはない。それでも時間だけは前に向かって進んでいくのだから、恋というのはむなしく感じてしまうこともある。
もし、この先、また誰かを好きになったとしても、あのとき好きな人と手を繋いだという事実だけが、私にとって唯一の救いとなっているはずだ。
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