小学生の時は中学生のため、中学生の時は高校生のため、高校生は大学生のため、大学生は大学院や社会人のため、というような前提を脳に下書きしながら、こなしてきた。

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見えない未来を見つめることが当たり前になってしまって、未来を描くために必要な武器を現在の自分が考える。
ところが社会人になってしまった今、次のステージが見つけにくくなってしまった。胸を膨らませる楽しみもなく、心を締め付ける悲しさもない。

小中高大の時にそれぞれ見据えた未来というのは、正確に言えば次のステージとやらではない。俯瞰した時の枠である。舞台というのは、時にハコと呼ばれるように、空間、囲われた場所である。
自分の色がわからないからこそ、その場所をできる限り良いものにしなければならないと感じていた。色を作るのは絵の具だが、私の絵の具は、3年くらいの周期で、ワケもなく入れ替わる。

大学生になる時、自分が何者にもなっていない現実をひしひしと感じた。綺麗な子達や人の目を引く子たちは、基本的に高校生までのどこかに見出されている。努力している場合もしていない場合もある。天性の力も魔性の引力もない自分に、果てしない努力はできなかった。

努力できない自分を自覚すればするほど、焦燥よりも諦念が心を埋め尽くしていった。何者にもなれないからこそ、大学に行かなければならないという虚しい思いを抱えていた。心の底から願ったはずの未来だったのに。

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社会に出てみると、年上の人間たちが自分の心が満たされる瞬間を見つけた上で、自分だけのキャンバスを生み出していた。目標や目的もないまま生きている自分の無味無臭さが、怖くなってくる。

これまでと違って、キャンバスを作り上げるためには、新しい絵の具を見つけながら生きなければならないと感じた。その裏で、自分の心の中で漠然としていたはずの「死」に対する意識が、重力に逆らうように浮かび上がった。

初めて「死」を意識した、小学三年生以来の感覚だった。特に何か辛いことがあったわけでもなくて、ただ夜寝る前に「人は死んだ先、どこに行くんだろう?」「どこで死ぬんだろう、怖いな」ということを考えていた、あの頃。

その後、就活で心折れても思い出さなかった。

次の舞台が見つからないから、最期はおろか、中間地点と呼ばれる場所や折り返しと言いたくなる盛り上がりも作れないのかもしれないと思うと、「死」という幕切れが、私にはとても怖い。

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しかしながら、諦念に駆られた自分を裏切ってくれた過去がないわけではないからこそ、私は焦燥に心を埋め尽くされたことはない。生きる目的はないが、死ぬ理由はないということた。

生きる目的があると人は幸せになれるという論理は、ある意味中毒を肯定する根拠になりうると、社会人になってからはよく思う。好きなアイドルのライブに申し込むため、もっと噛み砕けば当落に一喜一憂するために身を粉にして働くという事例を見ればわかる。自分の子供を育てるために犠牲を厭わない、正確に言えば犠牲と思わずに生き抜く。報酬よりもやりがいのために行動を起こす。自分の精神的安全や肉体的安定よりも、一生の思い出となる一瞬の快楽のために生きる。

なにより残酷だと思うのは、目的を持った行動は幸せを与えた上で、さらになお、理由が見つからない作業への不幸せを与えるリスクを持つという現実だ。
結果として、なるようにしかならない今が、その後に生きる場所を導き出すと信じる、しかない。

生きるというのは、時間と共に変化する絵の具を使って、キャンバスを無意識的に生み出し続けることだと思うから。