場所という見えない箱に合わせて変わる価値観、変わらない人間の核

「どうして、場所が違うだけで、こんなに自分が変わってしまうんだろう?」
幼い私は、そんな戸惑いを心に抱えていた。
親の仕事の都合で住む場所が何度も変わった私にとって、引っ越しの日は、「この町らしさをまとった服」を脱ぐ儀式の日でもあった。
空っぽになった部屋に背を向けるたび、自分の中の何かがその土地に置いていかれる気がした。
例えば小学生の頃に住んでいた岐阜の団地。暴れるように遊んでいた私は、ヘビやカエル、トンボをとっ捕まえ、慣れない自転車で近所の雑草道をぐるぐると回り、転び、田んぼに頭から突っ込んでは母をよく困らせていた。
ところがどっこい、転校先の神奈川県の小学校の周りは、歩く道全てがアスファルトで整えられ、どこかの国のお城のようなマンションが奇妙なほど規則正しく並んでいた。惹かれるように近づき、入ろうにもその入り口にはどこも〝関係者以外立ち入り禁止〟の赤いコーンが静かに立っていた。
唯一、子供の遊び場は、家から少し離れた所にある小さな公園だったが、利用している子どもはほとんど居らず、縮こまるようにしてシーソーと滑り台と砂場が所在無さげに身を寄せ合っているだけだった。
カエルもヘビも、田んぼも、もちろん無かった。
退屈だった。だけど、それ以上に、自分が自分でなくなっていくような感覚が怖かった。
〝場所〟というものの正体は、ただの土地という意味ではない。その空間にいる人が、そこからはみ出さずに生きられるように設計された、見えない「箱」のようなものなんじゃないか。
もちろん、当時はそんな難しい言葉で考えていたわけではない。けれど、あの頃の私はたしかに「箱」の存在を肌で感じていた。
その後も引っ越しを繰り返すなかで、ようやく気づいたことがある。
私たちは、その「箱」に合わせて、少しずつ形を変えて生きているということだ。ときには窮屈で、ときには広すぎて孤独で。でもどんな場所でも変わらずに持ち続けてきた感覚もある。
私にとってはそれが、人への優しさや、繊細で感じやすい心だった。
それは、どの箱にも収まりきらない、私という人間の「核」のようなもの。
一方で、場所によって柔軟に変わる部分は、「服」のようなものだと思っている。脱ぎ着できる価値観。そうして増えてきた「服」は、私の心のクローゼットにちゃんと残っている。
「どこで生きるか」とは、単に気候や物価、利便性を選ぶことではない。
それは、「どんな自分でありたいか」を選ぶことと、すごく近い。
つまり場所とは、ただの地理的な空間ではない。空の見え方の広さの違い、人との距離感、日々の流れのスピードまでもが詰まっていて、それらにどう身を預けるかで、自分という人間の輪郭が少しずつ変わっていく。
そして今、私はまた一つ、場所を変えようとしている。
25歳になった今、3年勤めた美術会社を辞めて海外で暮らしてみるという選択を決めたのだ。大人になり、親の都合の転勤ではなく、自分自身が身を置きたい場所を選べるようになったから。
言語も文化も異なる土地で、今までの自分の価値観がどれだけ溶け出し、どんなふうにまた形を変えるのか実際に確かめてみたくなった。
行き先は考え抜いた末に、自然と歴史的な都市が調和する、ポーランドにした。隣国にも積極的に旅行に行きたいと思っている。
ポーランドで暮らす時間は、間違いなく私に新しい“服” を与える。それはどんな肌触りで何色なのか分からない。けれど、その服がきっと自分にとって心地いいものである予感がしている。
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