パラレルワールドがあるなら。孫代わりとして一緒に暮らしたかった

私には大好きなおじさんがいる。スースという人。
おじさんとは言いつつも、私の祖母のお兄ちゃんで、あだ名がスースだった。
もう10年くらい前にアメリカの病院で亡くなったスースに会いたい。
祖母の一家は昭和前半、カナダに住んでいたが戦争の影響で日本の和歌山県に帰国した。
スースは一家の長男だったのでカナダの歴が長く、高校卒業後、向こうへ戻ったと祖母から聞いている。スースは人生をアメリカで送ると決めていて、国籍もアメリカへと変更していた。スースは大きくて、いつもジーパンにチェックシャツを着てメガネをかけていた。
毎年、祖父母の家にアメリカンチェリーを送ってくれて、どっかで仕事の休みを取っては1~2週間は祖父母の家にいた。「俺には向こうの環境があっているんだ」と日本に戻って来る度に、笑って話していた。
そんなスースが私は大好きで、帰ってくる度に祖父母の家に遊びに行っては、ハグをして、ずっとスースの上に座っていた。当時、私は保育園に通っていたが、アメリカから親戚が来ているからと、休んだりもした。
アメリカでの話をたくさんしてくれて、外で遊ぶ時はずっと手を繋いでくれて、抱っこもしてくれた。一緒にプリクラも撮った。お年玉にと、ドル札をくれた。
いつもニコニコしているスースが心から笑っているように常に感じていた私は、スースのいるアメリカに行きたいとずっと言っていた。だから、スースをお見送りするときは毎回、スースから離れないし、大号泣していたのを覚えている。いつも「また来年な」とか、「一緒にアメリカに帰るか」と声をかけてくれて、私は精一杯うなずいていた。
祖父母の家に泊まっていると、たまにタイミングよくスースから電話があって、私が電話に出ては祖母に受話器を渡していた。電話が終わるまで、ずっと祖母の横にいて、「なんの話?なんか言ってる?」とばかり、ちゃちゃを入れていた。
電話はいつも21:00くらいで時差を考えて電話をかけてくれていた。祖母との会話もアメリカの他の親戚についてだったらしい。
小学生になっても低学年までは変わらなかった。しかし、小学3年生くらいから、スースからの贈り物はあっても、スースが日本に来ることがなくなった。毎年来ていたのにと心の中で思い続けていた、ある時、スースの話を出すと体調が悪くて入院していると言われた。
混乱して、祖母に言われたのか、母に言われたのか覚えてはいない。お家に帰ってこれるのかと聞いたが、それも今は難しい、しばらく日本へは来られないと話された。心配ともう会えないのかもしれないという思いが溢れて泣いた。
次の日から1人でスースと撮ったプリクラをどこからか取り出しては眺め、小学校から早く帰った日には近くの神社にお参りにも行った。
しかし結果は残念だった。私が中学生になり、まもなくすると、帰宅した私に向かって母はスースがアメリカの病院で亡くなったと知らされた。スースがこの世からいないなんて考えられず、私は着替えて何も言わず、近くの公園に向かい、1人で泣いた。
もう一度、帰宅し母から話を聞くと、スースは2・3年ほど植物状態であったと説明された。管をつながれている姿を想像すると胸が苦しかった。
スースは独身だったため、曾祖父母と同じお墓に入ることになった。そうして、スースは亡くなった状態で帰国した。身内で葬儀が行われたが、私は受け止めきれず、参列しなかった。亡くなって2年が経つ頃に祖母と2人でお墓参りに行った。お墓に名前が刻まれているのを見て、やっと、実感した。
幼い頃にした、私が大きくなったらアメリカに行って、スースの家に泊まって、たくさん案内をしてもらう約束は叶わなかった。
もし、幼い頃に戻れるのなら、小学生になる前に一緒にアメリカに行きたかった。もし、パラレルワールドが存在するなら、スースが病気をせずにいられる環境があって私がアメリカに会いに行きたい。もう一度、スースに会えたら、また一緒にプリクラを撮って、一緒にお酒を飲んだり、笑って過ごしたい。たまには、昔みたいにスースの上に座っていたい。スースと一緒にアメリカで暮らして、自慢の孫代わりになりたい。
コロナになってから、お墓参りに行けてないのが寂しい。今年こそ、お墓参りに行きたい、報告したいことが山ほどあるのだ。日本語でも、英語でもたくさんスースと話したい。
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