誰かに愛されるために自分をすり減らす必要なんて、どこにもない

春になると、決まって桜がわたしをあの人のもとに引き戻そうとする。
満開の桜。
風が吹けば、はらりと花びらが舞い上がり、まるで淡い雪のように頬に触れる。
あの人と歩いた桜並木、手をつないで笑いあった春の夜。
繋いだ手のひらから伝わった彼との体温が、今でもその風に乗ってよみがえってくる。
あれから7年が経ち、もう思い出すことも少なくなった。
けれど、春の時期は不意に胸の奥がざわめく。
あの頃のわたしは、よく眠れなかった。
楽しい今を壊したくなくて、心のどこかで「ちゃんと向き合うこと」から目を背けていた。
彼と一緒にいる未来の話をしたくても、彼はいつもはぐらかすばかり。
“これは間違いなく運命の恋で、愛だ。”
そう思いたかったけれど、彼の存在は、どこか楽しい時間だけを見せてくれる麻薬のようでもあった。
未来について話をそらす彼の態度に、疑問がぐるぐる渦巻いた。
わたしは初めて、バイト先の先輩に思い切ってすべてを打ち明けてみた。
「今すぐ別れるべきだ」と、ほかの先輩と2人がかりで説得を受けた。
今は説得してくれた先輩に感謝しているけど、私は当時、その言葉をすぐに100%信じることができなかった。
6年、2人でかけがえのない日々を過ごしてきたと思っていた。
いい仕事を見つけて、これからも彼に必要とされる存在でいようと、必死に就活をしている最中だった。
今振り返ると、ここまで来るのに心も身体もストレスで荒れ、本当に大変だった。
別れてから数年の間は、彼との関係のことがトラウマとなり、フラッシュバックするように。いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)の発症であった。
新卒で入った会社はその影響で心身ともに体調を崩し、1年も経たずに退職。
その後も転職してはしばらくすると精神が不安定になり、退職に至ることの繰り返しを続けることになる。
日常生活も安定せず、心がバラバラに砕けそうになる毎日を過ごした。
食べることが大好きだったのに、どんな食べ物を見ても食べたいと思わない。
そもそも食べても味を感じない。
読書が趣味だったのに、活字が目の前でつるんと滑って読めない。
本屋に行けば、目に飛び込んでくる情報がとても多く感じ、激しい頭痛がする。
あんなことがなければ、わたしが正しく彼との付き合いを判断できていたら、と何度も悔やんで、その度に泣いた。
しかし、ある時突然気づいた。
当時のわたしは、大人になった気分でいただけの、ちっぽけな小娘だった。
異性について判断する力なんて、ほとんど持っていなかったと思う。
わたしは驕っていたのだ。
もう立派な大人で、相手の中に潜む善悪をちゃんと見抜けるし、うまく付き合っていけるはずだと。
でもあれから時間が経ち、ようやくわかった。
あの頃のわたしは、ようやく1人ですっくと立ち上がったばかりで、まだ助けが必要な子どもだった。
人との関わりについて、保護者の介入や助言が必要な時期だったのだ。
そう考えたら、すっと楽になった。
歳を重ねないと気づくことができない「それ」を、ようやく発見できたこと。
わたしはようやく救われたように感じ、心の底から本当に安堵した。
あれから時が経って、私はようやく互いを思いやりあえる優しい人と出会い、結婚した。
今は心身ともに「自分第一」で生きることができている。
もう、1人で他人の重い荷物を背負うことも、ひとつの考え方に縛られることもない。
他人に自分を雑に扱われることも、自分で自分を雑に扱うことも、ない。
もしも、もう一度だけ、あの頃の自分に会えるなら。
満開の桜の下で、後ろからぎゅっと抱きしめながら、こう伝えると思う。
“この後も、辛くけわしい日々が長い間続くことになる。
でもどうか負けないで。
将来のわたしは、自分で自分をしっかり愛せている。
誰かに愛されるために自分をすり減らす必要なんて、どこにもない。
あなたが愛せなかった「過去のわたし」は、「将来のわたし」がちゃんと愛しているからね。”
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