祖母の膝の上で笑う私。祖父の記憶に残るその姿は、愛されていた証

私は東京に住む18歳。私は誰よりも「あの人」の話を恐れている。
もう一度会えるなら、私は祖母に会いたい。
私は、関わり方を、心から後悔している。
祖父母は遠く離れた地に2人で暮らしていた。私の家から祖父母の家までは片道6時間ほどかかる。距離のこともあり、私は毎年2回ほど訪れる関係だった。親戚の中では、訪れる頻度が一番少ない。
6年前、祖母が亡くなった。
そのとき私は、人生で初めて深い後悔を味わった。
コロナ禍の最中だったこともあり、葬儀は家族葬だった。孫は私を含めて4人、親戚を合わせても10人ほどの小さなお葬式だった。
葬儀の席で、両親は祖母の顔を見るなり泣き出した。だが、私は涙が出なかった。
告別式では、集まった10人全員で祖母への手紙を書くことになった。
孫たちで集まってそれぞれ思い出を書いていた。けれど、私は何も書けなかった。
みんなが語るような祖母との思い出が、私にはなかったからだ。
祖母は晩年、重度の認知症を患っていた。私が物心ついた頃には、すでにその兆しがあった。病院に見舞いに行ったとき、祖母が私の名前を覚えていたのかどうか、今でもわからない。
みんなが祖母との思い出話で盛り上がる中、私には「思い出」と呼べるものが何ひとつ浮かばなかった。
けれど、私は白紙の手紙に、たった一言だけ書いた。
「夢で会いに来てください」
自分でも恥ずかしかった。会いに行く努力もしなかった私が、向こうから来てほしいだなんて、勝手すぎると思った。
一度だけ、祖母と部屋で2人きりになったことがある。けれど、何を話せばいいのか分からず、私は部屋の隅でまるで置物のように立ち尽くしていた。
それに気づいたのか、祖母は台所へとそっと去っていった。用事があったわけでもないのに。
あのときの沈黙が、今でも心に残っている。
私は祖母の納骨に行かなかった。先祖のお墓にもお参りしたことがない。
3回忌以降は祖父にしか会っておらず、親戚とも顔を合わせていない。従姉妹たちとも気まずく、連絡先すら分からないままだ。
祖父の家には今では年に4回ほど訪ねている。1週間に1度は、10分ほどの電話をするようにもなった。
祖母と話せなかった分、祖父とはできるだけ言葉を交わそうと心がけている。
祖父の部屋には、1枚の古い写真が飾ってある。
まだ私が5歳にも満たないころ、親族が全員集まったときの写真だ。中央には祖父と祖母が並んで座っている。そして祖母の膝の上には、私が座っている。
「なぜ、こんな写真があるんだろう?」
そう思って見つめていると、祖父はいつも話してくれる。
「お前さんはな、ばあちゃんのことが大好きだったんだよ。よく『おばあちゃん、おばあちゃん』って甘えててさ。膝の上が定位置だったんだ」
その言葉を聞いて私は思った。会いに来てほしいと願うだけではなく、私からも、今できることをしてみたいと。
今年、7回忌がある。親戚全員が参加するだろう。私も参加するつもりだ。
私は人と関わるのが得意ではない。だから、これからも親族の集まりに参加することを苦に思うだろう。
私は無理に人と関わることはしなくてもいいと考える。
約3年ぶりに従姉妹に会う。私以外の従姉妹は何度も集まり交流をしているという。仲に入ることはできないかもしれない。
けれど、話しかけてみようと思う。その結果がうまく行かなくても、また距離を置けばいい。
私は決めていることがある。その選択を選んだ自分を否定しない。私はそのことで「後悔」はしない。
私は思い出がないと思っていた。でもそれは、私の記憶に残っていなかっただけで、確かに祖父の中には残っていた。
祖母の膝の上で笑っていた私。祖父が語ってくれるその姿は、祖母に愛されていた証なのかもしれない。
私は、これからも祖母に会うことはできないかもしれない。けれど、祖母が気づかせてくれたことがあると感じる。
祖母を通して私は親族とのつながりを心の中でそっと育てていこうと思う。
今できるかたちで「後悔」がないように関わっていきたいと思う。
もう一度、おばあちゃん、あなたに会いたいです。
夢の中で、もし会える日が来たら、少しだけ、話をしてみたいです。
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