「生きてるー!」何も食べたくない日々を経て、食欲に感謝が芽生えた

適応障害になったとき、現れた初期症状は「自分が食べたいものがわからない」ことだった。
真夏だったということもあるかもしれない。もともと夏バテしやすい体質ゆえ、腹は空いているはずなのに食欲がなくて、できれば何も食べたくない、という状況に陥るときゅうりの丸かじりかガツンとミカンのアイスを食べてやり過ごす。適応障害になったのも真夏だったので、夏バテが乗じて食欲が低下したのも否めないが、それにしても欲という欲が枯れ果てたようだった。
寿司が好きである。最後の晩餐は寿司と決めているくらいには好きで、一人でも回転寿司に足繁く通っている。だから食欲がなくても、寿司なら食べれるだろうと最寄りの回転寿司に入ったが、3皿でギブアップした。スタバでフラペチーノを飲むよりも安いお会計となった。
そうして食べなくなるので、久しぶりに会った知人には「痩せたね」ではなく「やつれたね」と言われた。この二つの言葉の意味合いに違いはさほどないだろうが、後者を言われたことで自分が健康的ではないと思い知らされた。
それ以降は寝れなくなったり、起きれなくなったり、趣味がまったく楽しくなくなったりと、精神病の症状が顕著に現れたので病院に行き、無事に適応障害と診断された。適応障害だと断定されてしまえば、今までの私の不調にも理由がついて、やつれた原因にも言い訳ができる。そのことに少し安心して、病院からの帰り、ベローチェに寄ってナポリタンを食べた。1時間かかったけど、食べ切れたのが嬉しくて泣きそうになった。
食に執着があるかと聞かれれば多分そんなことはない。一人暮らしの食事もご飯に納豆が専らだ。でも外食のときはお金に出し惜しみせず、食べたいものを食べるようにしている。執着はないが、人並み程度には食べることが好きな人間なので、「食べたいものがわからない」「何も食べたくない」と思ってしまう自分は少なからず解釈違いだった。
精神病と食欲不振の因果関係は、医学的にはちゃんと理由があるのだろうが(副交感神経とかホルモンとか)、体験した張本人としてもっと恐ろしく言わせてもらうなら、あれは生きようとする気持ちが薄れていたのだと思う。動いたり考えたりするのに欠かせないエネルギーをチャージするために食べているのだとしたら、心が病んでいるときは動いたり考えたりしたくないのだから食べる必要もない。死にたいとはっきりと思うまではなかったが、虚無感に包まれてしまうと何もかもがどうでも良くなってしまう。食べたくない、必要ない。美味しいも不味いもどうでもいい。もはや腹が空いてるのかもわからん、知らん。みたいな。
だから今、あれが食べたいこれが食べたいと食指が動くのが幸せだと感じる。
女性や見た目に気を使う人は特に、食欲が止まらないことを真剣に悩んでいる人もいるだろう。確かに自制は大事だが、無闇矢鱈と自分の欲を蔑ろにするのは止めてあげてほしい。食欲が止まらないときは嘆くよりも「生きてるー!」と実感して、生きようとしている自分の生命力を讃えてあげてほしい。
私のように、自他共に適応障害になるなんて思ってもみなかった人間が、急に精神的にかかることだってあり得るのだから、食べたいものは食べれるときに食べておくのが吉だ。食欲はきっと、何よりの健康的な証拠なのだから。
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