「応援しています」書いた物語が誰かの心に届いた、その心強さ

「読んでこういう気持ちにさせてくれる作家さんは貴重だから、この作家さんを応援しています」と締めくくられたブログを見て、私は返答の記事を書かなければと思った。
その感想は私の小説に寄せられたもので、私の小説は決して、幸福な気分にさせる小説ではない。今回は毒親がいる娘が、紆余曲折あって推しの作家をストーカーするけど、推しではなく、事件に巻き込まれて……という短編を書いた。
強烈な毒母が出てくるので、やっぱりその感想も、母親の話に触れていて、自分の母親と重なるところがあって感情移入してしまったというものだった。
私はプロではなく、アマチュアの物書きだから、そういう感想をもらって少し怖気づいてしまった。無遠慮に人の心に触れてしまった気がしたから。真剣に感想を書いてくれたのだから、返答しなければならないと思ったものの、なにを書けばいいのかもよくわからなかった。また毒母というのは私の友達の話などを参考にしており、私はそういう母親を嫌悪していた。「あなたが家から出ていくなら、私死ぬわ」と娘に言い放つ母親は、小説なら強烈なキャラクターとして捉えられるが、現実ならじゅうぶん恐怖に値する。私はその感想を書いてくれた方の苦労やままならない家庭環境や母親の呪縛がどうしても気になってしまって、でも返答で触れるのはそれこそ「無遠慮」だと思い、なにも言えなかった。返答には制作時の想いなどを書くことに務めた。
私は十九歳のときに初めて小説を公募に送った。当時愛読していたライトノベルの大賞だった。受賞金は三百万で、およそ四千作品のなかから四作が最終選考に残り、出版されるという大規模な賞だった。私はそこで一次選考を通過し、二次選考で落ちた。二次選考に進んだ作品には編集者からの講評がもらえるので、私はそれに喜んだ。その当時からプロになれたらと夢見ていたが、初めての試みなので、講評だけでも胸がいっぱいだった。
そこから十年経った現在。私は仕事を辞めたのを機に、もう一度プロの小説家を目指そうと思い、またあがきはじめた。小説の賞に投稿したり、エッセイの賞に投稿したりしている。
荒々しく人の心に爪を立てながら、その傷を撫でる小説を書きたい。
ただ優しいだけの物語を、私は面白いと思わない。
と、思い続けて書いてきたが、生の感想をもらって、立ち止まってしまった。
私はだれかの傷を深くしただけだったのではないだろうか。
だれかの心を鋭く抉っただけだったのではないだろうか。
そんな恐怖を抱いた。
けれど感想は「応援しています」で締めくくられていた。たったそれだけの言葉に私は困惑し、戸惑い、そして最後に胸がじんと熱くなった。誰かに私の書いた物語が届いたのだと思えた。たとえ完全に寄り添えなくても、たとえ無遠慮だったとしても、それでも読んで真剣に感想をくれる方が、ひとり、いる。
それがこんなにも心強いことなのだと私は知った。
最近うれしかったこと。それは自分の書いた物語が、誰かの心に届いたこと。そして私自身もまた、読んでもらった方の感想に励まされながら、また物語を書きたいと思えたこと。
私はまだアマチュアのままだ。世の中には私よりも上手な作家、面白い話を書く作家がたくさんいる。そういう人たちは私よりもずっと多くの人たちの心を動かしている。
それでも、私は私のままで、誰かに届く言葉を探していたいと思った。
小説を書いていると、自信を失うことが何度もある。自分の書いているものなんて、ちっぽけで、拙くて、誰でも書けるものなんじゃないか。わざわざ読んでもらう価値なんてないんじゃないか。そんなふうに思って、パソコンの前でうずくまる夜もあった。
でも、誰かが、ひとつの感想をくれる。
「この話に出会えてよかった」と。
「自分のことみたいに思った」と。
それだけで私はまた椅子に座りなおせる。
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