「食欲があって、美味しいと思えるなら、大丈夫そうやな」

実家で風邪を引いたりして寝込んでいる私に、両親はよくこういうことを言った。布団で高熱やら頭痛やらで呻きながら、「いやいや、もう少し心配してや」と内心少し拗ねていたことは今でも覚えている。それはそれとして、出されたご飯はきちんと食べたし、実際、ちゃんと食べられるときはそう長くないうちに症状が落ち着いたが。

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私の両親は、医療従事者である。人を救う仕事であるとともに、人を見送ることもある仕事だ。そんな両親は、私と妹によく職場の話をしてくれた。

その中で、よく話をしてくれたのは「食事をおいしく食べられなくなってくると、人は体も心もどんどん弱っていき、やがて病に負けてしまう」という話だった。自分たちの肌感覚だから、と前置きながらも、食事をきちんと残さず食べる人は予後がよいが、過度に痩せていたり極端な少食、偏食がある人はなかなか回復が難しかったり、大きな手術に体力が付いてこないままその命が終わってしまうことすらある、と教えてくれた。

実際、それが科学的に証明されているかは私にはわからない。幼いころから聞いていた話だったから、食育の一つだったのかもしれない。だが、「きちんと食べられるなら戦える」いう価値観が、私の中にしっかりと根付いた。

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しかしながら、その価値観が根付いていると気が付いたのは、実はごく最近のことである。きっかけは一人暮らしを始めて、初めての繁忙期の時だった。とにかく仕事に追われていて、片付けても減るどころかどんどん増えていくタスクに忙殺される中で、仕事のミスが立て続いた。苦手な先輩に痛烈な皮肉を言われたことも重なり、ついに泣きながら家に帰った。残業ばかりで疲労困憊。肌荒れもひどく、泣いたせいでメイクはボロボロ。そんな自分の姿を鏡で見て、ふと「もう、戦えない。頑張れない」と思った。

戦えなかろうが、頑張れなかろうが、片付けなければならない仕事はある。だが、気持ちが追い付かない。明日もタスクに追われるのだろうか。嫌なことを言われるのだろうか。悶々と嫌な考えばかりが頭に浮かんでは消え、浮かんでは消え、としているときにふと思った。

「最近、ちゃんとしたご飯、食べてないな」

冷蔵庫をあけると、休日下ごしらえして冷凍していた肉やカットした野菜があった。時間は遅かったが、解凍して野菜炒めと野菜スープを作った。別に特別でもなんでもない料理だ。家族の思い出の味というわけでもない。

だけど、食べた瞬間、「おいしい」と思えた。食欲がわいた。そうなった時、「あ、大丈夫だ。私、まだ戦える」と気が付いた。

じゃあ、次の日から何の問題もなかったか、と言われるとそんなことはない。私はフィクションの主人公ではないからミスもするし、仕事の効率はそんなに変わらない。だが、なんとなく「大丈夫、何とかなる。戦える」と思えた。そうやって少し余裕ができると、実は私のことをちゃんと気にかけてくれている人がいたことに気が付けた。その人たちに頼ることができた。食べることが、私を生かしてくれたのだと実感した経験だ。

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SNSでは下剤を使ったり、過度な食事制限で痩せている女性を見かける。少し前、そういうことをしている女性がごく普通の体形の女性に悪口ともとられる発言をして炎上していた。彼女をたしなめたり批判する声に対して、攻撃的な口調で返信したり、炎上をあおるような発言を繰り返している姿を見た時、繁忙期の経験がよみがえった。きちんとご飯を食べていなかった私も、神経質で攻撃的だったかもしれない。

過度な食事制限や下剤で減量をしている人がみなそういう人だ、とは言わない。だが、その行動は自身の肉体も精神もすり減らす、強烈な強迫観念が絡んでいる行動だ、と私は思う。憧れよりも心配が勝る。

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SNSやメディアで「痩せていることは美しい」というメッセージは繰り返し喧伝される。一部の男性が「〇〇kg以上は女として見れない」と歪んだいい加減な価値観を表明することもある。それに強く影響された女性が現れ、その価値観に他の女性を巻き込もうとする負のサイクルは確かにある。

だが、それに迎合しなくても幸せになれるし、生きていけることを私は知っている。だから、今日も私はご飯を作って食べる。たまにジャンクフードや甘いものは食べるが、連日繰り返しはしないと思う。数年後も、数十年後もそうするだろう。その結果、恋人に振られようと、「痩せていない」と非難されようと、私は変わらない。「きちんと食べる」は生きる原動力だから。