私は私の原作者。自己犠牲という名の正義を俯瞰に変えて生きていく

社会人になって、声がでかいだけの人が勝ち抜いていく現実がそこら辺で観測できるようになった。無神経と鈍感が周囲を動かすという事実も突きつけられるようになった。誰かのためにという気持ちを安直に持つと、搾取ばかりされていく。
特別な思いが、当たり前のものとして邪険に扱われ、透明になっていく。
かつての私は搾取されるほうだった気がするが、あることをきっかけに、自己主張を激しくするようになっていく。
遡ること、大学生のころ、私はサークルの仲間たちと過ごしていた時に、何かのはずみで「私にはこれくらいしかできないから、本当に協力してくれて助かる」というような言葉を言った。
それを聞いていたサークル仲間の1人が、いつもの水切りの石のような軽さの口調ではなく、水切り石を選ぶ時の真剣な様子で、「そんなこと言わない方がいい。本当にそうなってしまうから」と目を見て鋭く言ってきた。
怒るわけでもなく、悲しむわけでもなく、笑うわけでもないその子の声が今も忘れられずにいる。
その時の私は、何も返せなくなりそうで、消え入りそうだった。元々その子は、私の痛いところをついてくるところがあったのもあり、無意識に身構える自分がいたのだろう。
しかし、その子の言葉により、私の脳裏にはこれまでの自己卑下の言葉が一斉に浮かび上がり、自己犠牲をしていた自分に気づかされることになる。
少し前の中高時代に、原因不明の人間関係の拗らせに嫌な気持ちになることや、自分よりも抜きん出た才能や運の良い人たちを何度も見てきたことも関係している。
才能に恵まれる人や、運がいい立場を皮膚として持っている人たちは、挑戦することに躊躇がないのだ。理由は単純で、前だけを向けるから。正確にいうなら、「後ろを向くという選択肢を持ち合わせていないから」である。
あらゆる面で豊かな人たちがさらに豊かになっていく。そして、誰かと比べて劣っていると感じ始めた人たちが控えめながらも、何とか自分という主人公を満足のいくストーリーの主演にさせるための脚本家になり、孤独な己を励ましながら強く生き抜こうと悶える。その営為を支えているのが、私の場合、「自己犠牲による自己防衛」だった。
木を隠すなら森の中に、古傷を包むなら新しい傷を、痛みに負けないようにさらなる強い痛みを、というように、誰かに傷つけられるくらいなら己で、という思いがある。予測できない脅威を防ぐために、その選択をする。
実際に言った卑下の言葉は、「私はバカだから」「私は何もできないから」というような言葉だったかもしれない。
思い出せないのは、その一件を皮切りに、卑下しなくなったことが大きいと思う。まあ単純に経年劣化、いやアップデートできなくなったスマートフォンからデータが消されていったのだろう。
ここまで読めばわかる通り、その一件以来、「卑下という行為」を「俯瞰という行動」に差し替えるようになった。
時を戻して今、ある漫画家の生涯を題材にしたドラマが放送されている。その方が残した言葉に、「正義は自己犠牲を伴う」という言葉がある。私の好きな言葉である。誰かを助けるはずの正義は、他の第三者を傷つけるリスクがある。それでいてなお、自分さえも傷つけている場合があることを、その方は自覚していた。
己を守るためにしていた自己犠牲は、裏返せば、自分を守るという正義を私が持っていたことの証明になるのだろうか、そんなことを思うときがある。
その子にかけられた言葉を胸に抱いてから、誰かのために自分を調整することをやめた。そのサークルは、1からものづくりをするサークルだったので、よくよく考えてみれば、作り手自らが卑下する完成作品をだれが見たいと思うのか、という思いを持つようになったのが大きい。
私という原作者が取るべき行動は、主人公である自分を1番に愛して、自信を与えることだ。
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