「〇〇党の△△、△△を!どうぞお願いいたします〜〜!!△△です!」

ジリジリと肌が焼けるような夏。駅前や選挙カーから拡声器越しに聞こえてくる声を街で耳にすると、また選挙が近づいてきたのだなと実感する。

いつも、誰に投票するかギリギリまで決められない。
けれど私は、どんなに悩んでも、必ず投票すると決めている。

選挙は私にとって、未来を選ぶための私自身の意思表示をする、大事なイベントだから。

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初めての選挙は、20歳の誕生日を迎えた翌年の初夏だった。
緊張と、若干の誇らしさが入り混じっていたのを、なんとなく覚えている。

投票所の周りには、お年を召した近所の高齢者ばかりが集まっていた。若者の姿は珍しいのか、視線がこちらに向けられるのを感じた。

受付で投票用紙を受け取り、係の人の案内に身を任せながら、候補者の名前を書いた。
どの候補者も「これだ!」という決め手があったわけじゃない。
それでも、自分が「こうなってほしい」と思う未来を思い浮かべながら、一番近しい人に投票した。

投票用紙を投函する手のひらは多少汗ばんでいたけど、心の中はすっきりしていた。

出口で係の人から「投票証明書」をもらった。
「自分はちゃんと意思を持って社会に関わっている」という証を手にしたみたいで、大切に財布にしまった。

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それから年月が経ち、今では選挙のたびに話し合う相手が、すぐ隣にいる。

家に届いた新聞を広げて、「この人どう思う?」「この公約、気になるね」なんて言いながら、ソファに並んで座って語り合う。

選挙って、ひとりで考えて決めるものだと思っていたけれど、誰かと「どんな未来がいい?」を話すことも、意思表示のひとつの形なのかもしれない。

そういえば、友人と「組織票」の話をしていた時、「会社のグループLINEで『全員ここに入れろ』って社長から送られてきたことがある」と冗談混じりで聞かされたことがある。

最初は冗談かと思ったけど、どうやら本当らしい。しかも、その地域ではよくあること、なんだそう。その時は盛り上がったけど、同時にゾッとした。

誰かの指示で、自分の一票が塗りつぶされる。それって、自分の未来を他人に譲ることじゃないだろうか。
だからこそ、私は他の誰のせいにもせず、「私」の意思を込めて投票したいと思うのだ。

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投票するとき、私は「こういう未来になってほしい」気持ちを、一番近くで拾ってくれそうな人や政党に願いとして託す。自分の気持ちと向き合い、「じゃあ今回はここに入れよう」と選ぶ。

特定の政党に決めているわけではない。新しい風がもっと強く吹いてほしいと願っているから。

選挙は、誰かの顔色をうかがってするものではない。ましてや、「どうせ何も変わらないし」と諦めながらするものでもない。

私が投票に行くのは、他の誰のためでもなく、「未来の自分への意思表示」のためだ。

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「投票所まで行くのが面倒だったんだよね」

旦那が以前住んでいた地域は、最寄りの投票所まで歩いて1時間以上かかったという。休みの日にそこまで苦労して足を運ぶ気になれなかったし、「どうせ何も変わらない」という気持ちもあって、そのまま投票には行かなかったのだそう。

そんな旦那の考えが変わったきっかけは、友人のひと言だった。

「政治にぎゃあぎゃあ文句を言いたいなら、まずは投票しておかないと。投票してない人には文句を言う権利すらないよ」

その言葉にはっとしたらしい。それからは、毎回欠かさず投票に行くようになったという。

「昔は明後日のことまでしか考えられなかった」そんなふうにも話していた。
だんだんと仕事や生活が少し落ち着いてきて、ようやく「先の未来」に目を向けられるようになった、と。
その変化が、政治や社会に目を向けるきっかけへと繋がったのかもしれない。

政治って、余裕がないと関われないものなのかもしれない。
生活で必死な時は、目の前のことで精一杯で、「誰が当選しようと、どうでもいい」と感じてしまうのだろう。

そんな風に感じてる若い人って、案外多いのかもしれないと、初めて気づいた。

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「行ったってどうせ変わらない」

そう思ったこと、実は私にもある。若者の投票率は低いって言われてるし、そもそも周りも政治には無関心。自分ひとりが投票しても、何が変わるのだろうか。
それでも、私は投票所に足を運ぶ。「未来の自分」のために。

今、社会に言いたいことがあるなら。「もっとこうなってほしい」って思うことがあるなら。その想いを、私は白紙じゃなくて、ちゃんと書いて残したい。

選挙は、自分の人生に対して「わたしはこう思ってるよ」って意思表明する場だと思うから。誰かが勝手に決めた未来じゃなくて、「わたしが関わってきた未来」を生きていたい。