バッサリと髪を切った。……と書くだけで、失恋を想像する方もいらっしゃるかもしれません。

でも、私がこの人生で髪をバッサリと、それも35㎝以上も切ったのは2回ですが、どちらも恋愛とは関係ありません。理由はヘアドネーション、つまり髪を寄付するためでした。

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初めてヘアドネーションをしたのは、高校生の頃。その当時、私は両膝の慢性的な怪我のため、歩くのに難儀する生活を余儀なくされていました。通学が思うようにできないのはもちろんのこと、授業で教室を移動する時も、体育の授業でグラウンドに行く時も、ほとんど常に誰かの手を借りていました。

誰かに何かを「してもらう」ばかりの生活をしていた頃に偶然知ったのが、「髪を寄付する」活動でした。誰かに何かを「したい」と思っても、まともに歩けもしない自分にできることなどありません。でも、髪なら伸ばせると思いました。

時間をかけて髪を伸ばした私は、高校3年生の時に髪を切り、ボブになりました。幼い頃を除けば、それほど短くなったのは初めてのこと。慣れない髪型にぞわぞわしつつ、一生懸命髪を伸ばし、それから4年後、大学生の時に再びヘアドネーションをしました。

けれど、社会人になってからは、途中まで伸ばしたことはあったものの、左手と左足をほぼ同時に負傷したのをきっかけに、髪を伸ばすのを諦めてしまいました。たとえ坊主頭だったとしても、手も足も片方ずつ怪我をしていたら入浴は大仕事になるでしょう。ましてや、片手で長い髪を乾かすなんて……。ロングヘアを維持するのは不可能だと痛感した私は、泣く泣くセミロングになりました。

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その後は忙しい日々で、寄付できるほどの長さに髪を伸ばすことはできず、社会人になって3年が経つ今も、ヘアドネーションへの道は絶たれたままとなっています。

しかし、最近、私は再び髪を伸ばし始めています。髪をあげたい相手ができたのです。それは、見知らぬ誰かではなく、自分の母です。

なぜそんなことを考えついたのかというと、病気の治療の前に「自分の髪でウィッグを作った」という人の話を聞き、病気などにならなかったとしても、私の母が今の髪質・毛量を保てるのはあと何年だろうと思ったからです。

子どもの頃から、私は母の髪を染めるのを手伝っていました。彼女が白髪染めで選ぶ色は、いつも茶色。よく、母はこんなことを言っていました。「私の髪も、あなたと同じ茶色だったのよ」と。

年齢とともに髪が白くなることを疎むべきだとは思いません。でも、自分にとってなじみ深い髪の色が変化して、定期的に染めないとその色を取り戻せないというのは切ないなと思いました。それに、髪の色だけではありません。いずれ、髪の量だって減っていくとしたら、それはどんな気持ちでしょうか。

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母に、私の髪でウィッグを作ってあげたい。

母の本来の髪と同じ色・質である私の髪で作ったウィッグなら、きっと母は喜ぶでしょう。それに、ショートヘアのウィッグしか作れない長さしか切れなかったとしても、今、ショートヘアの母には十分だろうと思いました。

ヘアドネーションをするには、一定以上の長さが必要ですが、長ければ長いほど、作れるウィッグの長さも長くなります。しかし、私はかなりのくせっ毛で、髪をバッサリ切ってショートになってしまうと、とても手に負えない状態になってしまいます。そのため、髪を35㎝以上切ってもなお髪が結べる長さになるまで髪を伸ばさなくてはいけないのです。

ロングのウィッグが作れるくらいに髪を伸ばすとしたら、自分の腰の下よりももっと長く伸ばさなければなりません。それは、私にとっては現実的ではありません。でも、私が寄付していた団体では、ロングのウィッグが作れる長さの髪が求められていました。それなら、私の髪を、たとえ短くても、心から喜んでくれる相手に贈ろうと思ったのです。

本当に自分の髪でウィッグが作れるのかは、まだ分かりません。でも、どうせ伸ばすなら、どうせ切るなら、同じ髪色の母のために。そんな思いで、今、髪を伸ばしています。