高校1年生のある日、私は髪を短く切った。耳につくかつかないかの長さにそろえたその瞬間、鏡に映った自分の姿が少しだけまぶしく見えた。

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思えばその頃の私は、自分の性別に対してどこか違和感を覚えながら日々を過ごしていた。「女の子らしく」という枠の中で求められるふるまいや格好に、ずっと息苦しさを感じていた。スカートやふんわり巻かれた髪の毛、それらが私にとって自然ではなく、自分自身を演じているようにすら思えていた。

そんな思いから、私はメンズ服を選ぶようになった。大きめのTシャツ、ゆったりとしたズボンにスニーカー。いわゆるメンズ服と言われるアイテムを、私の中では、私らしい服として選ぶようになっていた。性別にとらわれない中性的な装いは、まるで新しい自分を手に入れたような気持ちにさせてくれた。

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けれど、周囲の目は決してやさしいものばかりではなかった。ある日、祖母の家を訪ねたときのことだった。いつものようにTシャツにゆったりめのズボン、キャップを被った姿で家に入ると祖母が私の姿を見て一言放った。「男みたいな格好して男にでもなりたいの?」。その一言に、胸の奥がギュッと締め付けられるような思いがした。私は男性になりたいわけではない。ただ「女の子らしさ」という、言葉で括られることに納得がいかなかっただけなのに。

中性的に見える服を着ることは、 性別を否定することでも反抗でもなく、ただ自分にとって心地よい生き方を選んでいるだけだった。その思いは祖母には届かず、まるで自分自身の存在を否定されたような感覚にじわじわと胸が痛んだ。

家に帰り、私は母にそのことを打ち明けた。祖母の言葉にどれだけ違和感を感じたか、私はどれだけ「普通」の女の子というものに疑問を抱いているのか。泣きながら話す私の言葉を、母は静かに最後まで聞いてくれた。そしてこう言った。

「たった一度きりの人生、杏奈が着たい服を着なさい。誰かにどう見られるかより、自分がどうありたいかの方が大事だよ」

張り詰めていた気持ちが緩みふっと軽くなった。自分が自分でいていいのだと初めて肯定された気がした。

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それからというもの、私はますます自分の「好き」を大切にするようになった。人の目や評価に振り回されず、自分の感性で着たい服を選ぶようになった。

ある日は明るい色の派手なシャツを、別の日は全身モノトーンでシンプルにまとめる。今日はどんな服を着ようか、鏡の前で悩む時間すら楽しい。服は私にとって単なるファッションではなく、自分らしさを表現する手段なのだ。

今でも時々、祖母に言われた「女の子なんだから」という言葉が頭をよぎることがある。だけど母の言葉が、私の中でいつも背中をそっと押してくれている。どんなに迷っても、あのとき母がくれた言葉が私を支えてくれる。今思えば、母のあの一言が私の人生を変えたのだと思う。

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着たい服を着るという自由は、決して誰かから許可をもらうものではない。でも、当時の私にはたしかに母の「あなたはあなたらしくいていいんだよ」という肯定が必要だった。だからこそ、母には感謝してもしきれない。

「着たい服を着ること」は私にとって、「自分を生きること」そのものだ。誰かの期待や常識の枠に自分を押し込めず、今日の自分に似合う一着を選ぶ。それが私がようやく手に入れた日常であり、誇らしい選択だ。

あの日、鏡に映ったショートカットの自分はまぎれもなく、私の始まりだったのだと思う。何者かになろうとしたわけじゃない。ただ自分を縛るものを、ひとつ外しただけだった。そして今日も私は自分の気分にぴったりの服を選んで、一日を始める。