夏が来るたび私の心には決まって、ある情景が浮かび上がる。それは実家の広い庭で、家族と囲んだバーベキューのにぎやかな時間だった。炭火のパチパチという音と、肉や野菜の焼ける香ばしい匂いが夏の夕べを彩っていた。

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あの頃の夏は、まるで魔法のようだった。田舎の実家には、バーベキューをするには十分すぎる広い庭があった。普段は手入れが行き届かない雑草だらけの場所も、夏の間だけ私たち家族の特別なステージへと変わる。父が慣れた手つきで火を起こし、母が山盛りの野菜と肉を準備する。父や弟がすぐ白米を食べられるようにと、窓際に置かれた炊飯器。私は飲み物を運び、紙皿や箸を並べる係だった。

特に印象深いのは、父が川で釣ってきたばかりの魚を焼いていたことだ。塩を振っただけのシンプルな調理法。それなのに、炭火で焼かれた魚の皮はパリッと香ばしく、身はふっくらとしていて、その日の主役だった。父は誇らしげに魚を焼き網から取り分けてくれた。また、母と妹はレモンとブラックペッパーが効いた特製の豚トロに夢中になっていた。何度もおかわりをしては「おいしい!」と声を弾ませていたのを覚えている。弟は最後の焼きそばを楽しみにしていた。それぞれの好みがはっきりと現れるのも、バーベキューならではの楽しい光景だった。そして私たちの足元では当時飼っていた犬が、じっとこちらを見つめていた。時折、何かおこぼれがないかと期待しているようだった。私たちはそんな様子を見て笑い合う。父が少しだけ焼けた魚の切れ端を与えると、嬉しそうに味わっていた。

日が暮れても、バーベキューは終わらない。庭に持ち出したランタンの灯りの下、子どもたちは花火に興じる。線香花火の儚い光を見つめながら、この時間がずっと続けばいいのに、と幼心に願っていた。炭の匂いが染み付いた洋服に、夜空に広がる虫の声。五感のすべてで夏を味わい尽くす、贅沢な時間だった。それは単なる食事ではなく、家族との絆を深める行事であり、一年で最も心が解放される瞬間だった。

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しかし今はもう、あの夏を再現することはできない。
現在私が暮らす名古屋の夏は、容赦なく厳しい。アスファルトの照り返しと、うだるような湿気がまとわりつき、日中の外出は命がけだ。とても屋外で火を囲む気にはなれない。もちろん実家の広い庭も、ここにはない。集合住宅の一室であの頃の匂いや音を思い出すたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる寂しさを感じる。

都心の夏は、エアコンの効いた部屋で過ごすのが一般的だ。涼しいカフェで友人と語らい、デパートの冷気の中で買い物を楽しむ。それはそれで快適で、便利だ。けれど、肌にまとわりつく熱気の中で汗をかきながら食べる焼きたての味や、炭の匂いを嗅ぎながら夜空を見上げた時の開放感は、どうしても得られない。あの庭でのバーベキューは単なる夏のイベントではなく、私にとって「夏だからこそできた特別な体験」だったのだ。

あの頃の私はバーベキューそのもの以上に、そこで得られる「自由」や「つながり」を求めていたのかもしれない。時間を気にせず火を囲んで、ただ笑い合う。そんな喜びが都心の効率的な暮らしの中で失われつつあることに、ふと気づかされる。都心の生活は多くのものを与えてくれたが、同時に忘れかけていた大切な感覚を思い出させてくれる。それは便利さと引き換えに失われたものの大きさを、静かに教えてくれているようだった。

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今年の夏も私はエアコンの効いた部屋で、冷たい飲み物を片手に過ごしている。それでも目を閉じれば、あの実家の庭の情景があざやかによみがえる。虫の鳴き声、炭の匂い、家族の笑い声。もう二度と体験できないけれど、確かに私の心に刻まれたかけがえのない夏なのだ。そして私の心の中には、いつでもあの庭の魔法が息づいている。