「愛されている」と実感できる空間。おばあちゃんの部屋で見た景色

おばあちゃんが好きだ。死んじゃったけど、今でも好きだ。
もう本当のところは分からないけど、おばあちゃんも私を好きだったと思う。兄弟それぞれに愛情を注いでくれたけど、特に私はおばあちゃんの愛にとっても助けられた。
家族の中で問題児だった私を、おばあちゃんはいつも「優しい子」だと言ってくれた。何かにつけて母と衝突しては、ぼんやりと「私って性格悪いんだろうな」「必要とされてないんだな」と思っていたから、その言葉は大きかった。
本当に優しいかどうかより、私を信じてくれたという事実が重要だったと思う。好きな人が信じてくれたから、おばあちゃんのためにも「本当に優しい子でありたい」と思うようになった。
おばあちゃんは、運動神経が良かった。町の運動会では玉入れもぽんぽん入れるし、二重跳びしか知らなかった私にハヤブサも教えてくれた。手先も器用で、料理も上手。さらに、気前も良かった。
家の敷地内で民宿を切り盛りしていて、夏になると大学生が水泳合宿のために泊まりに来たり、家族が夏休みの思い出を作りに来たり、そこそこ繁盛していたと思う。近所のおばちゃんたちも手伝いに来てくれて、食事の配膳やお布団の準備と賑やかだった。
大人になってから知ったけど、主婦しか知らない近所のおばちゃんたちにお仕事の機会を渡したり、それを元に旅行に連れ出したり、おばあちゃんはみんなの世界を広げていたみたい。先進的な考え方だし、さらにそれを周りを巻き込んで実行していたなんて、かっこいいなと思う。
いつからか、私はおばあちゃんの部屋で寝ることになっていた。夕食のあと一緒にあぶ刑事を見たり、おばあちゃんの趣味だった大正琴やちぎり絵を横目に見ながら、部屋でゴロゴロしている景色をぼんやり覚えている。ちょっと小腹が減ると、肝油をもらったりしていた。
いろんな季節をともにしたけど、特に印象深いのは、夏のありふれた夜の思い出だ。網戸から少し涼しい風が入ってくる。おばあちゃんは、私が寝るまでうちわで仰いでくれている。顔にかかる風を感じながら、おばあちゃんのタプタプの二の腕を触りながら寝るのが好きだった。
おばあちゃんの部屋での記憶はいつも穏やかだ。スキンシップをするタイプでもないし、子どもだったから会話だってぽつりぽつりだったと思う。でも、私の全てを両手放しで好きでいてくれたあの空間に、私の心はいつも無防備でいられた。
この空間が私を愛で満たしてくれていたと、今なら分かる。
お墓掃除とか、そんなに興味湧かなかったのに、そこにおばあちゃんがいると思うと「あ、草がいっぱいじゃん」とか「暑いからお水飲みたいよね」とか思っている自分がいて驚く。一時帰国のたびに、草むしりや掃き掃除に行って、お墓の前に水を置く人たちの気持ちを初めて理解した。
お墓に向かって「おばあちゃん、元気ー?」なんて明るく声かけたりするのに、死んじゃったおばあちゃんを考えるとやっぱり寂しくなる。誰だって必ず死ぬって分かっているのに、おばあちゃんとの思い出をたくさん話すと涙が滲んじゃう。
でもそれは、心残りがあるとか執着心みたいなのとはちょっと違う。
全てが完璧だったわけじゃないけど、おばあちゃんとの時間は悔いなく過ごせたと思っている。それに、おばあちゃんが愛情を注いでくれたおかげで、私は自立した人間になれた。
私もおばあちゃんみたいに、大切な人に愛している気持ちをちゃんと渡して、愛の循環を繋げていきたい。きっとそれは、小さな積み重ねの毎日にも充満させることができる。だって、ものや言葉だけじゃなく「愛されている景色」が記憶にあるのも、かけがえのない人たちに渡せる愛だと思うから。
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