実家に暮らしていた頃、タンスの中は肥やしだらけだった。着る機会に恵まれず肥やされている服もあれば、あえて肥やされている服もあった。あえて肥やされている服は好きなアニメキャラが描かれた半袖ティーシャツだった。一着二着の話ではなく、軽く五着以上は肥やされていた。

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私は衣類量販店でよく好きなアニメキャラのティーシャツを買っていた。着ないなら買わなければ良いのだが、デザインがかっこ良く、お値段もお手頃でついつい買っていた。デザインがかっこいいのは、何故ならメンズ向けだからである。そのため着こなしが難しい。彼氏のティーシャツを借りています、みたいになればいいものの、夜のコンビニの前でたむろしている感じが出がちである。デザインがかっこいいから買うものの、かっこいいが故に着るのには勇気がいった。

何より、キャラクターがデザインされているものを身に付けるという部分に抵抗があった。昨今、推し活という言葉が普及して久しい。しかし、それ以前はアニメやマンガが好きというのはあまり誇れることではなく、隠すもの、もっと言えば恥ずべきものという扱いであった。

コロナ禍でステイホームが叫ばれた際、家の中で楽しめる娯楽としてアニメが人気を博したのが要因なのだろうか、アニメやマンガ好きの人の扱いががらりと変わった。あまりにも短い間に急に変わって困惑しているし、未だに慣れていない。話は若干剃れたが、そんなわけでキャラクターものを身に付けるのは痛々しい行為だった。

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着こなしや世間体を理由に述べたが、何より大きい理由が、推しを悪く言われたくないということだった。推しを身に付けていれば、このキャラが推しです、と宣言しているようなものだ。私は自分の「好き」を否定されるのが辛い。自分を悪く言われるより、推しを悪く言われる方が堪えるかもしれない。しかし、わざわざ現実で人の推しを悪く言うような人はいないと思うだろう。だが私はそんな人が身近にいたのだ。父である。

人の推しであろうがなんであろうが、自分の気に食わない存在には罵詈雑言の限りを尽くす、父はそういう人間だ。父には尊重という概念がないのかもしれない。実家ではリビングにしかテレビがないので、テレビ番組はリビングで観るしかない。

リビングで番組を観ているとどうしても家族の目に触れてしまう。そして父以外の家族にはチャンネル権などあってないようなものだ。偶然を装ってリアルタイムの番組にチャンネルを合わせ、なんとか推しを観ていたとしても、推しに癒される前に父に推しをボロクソ言われてしまう。罵っている相手が娘の推しとは知る由もなかったのかもしれないが、推しじゃなかったとしても気分の良いものではない。

そんな家庭環境だったので、推しのデザインされているティーシャツなんて着られなかった。推しを貶されるのが怖くてたまらなかったから。

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推しのティーシャツが日の目を見たのは父と縁を切り、実家から離れてからだった。部屋着として着ていることも多いが、夕暮れ以降の徒歩圏内や朝のゴミ捨てであれば外に着て行ける。推しのイメージカラー的に真っ赤なティーシャツが多いのだが、高校のジャージの真っ赤なハーフパンツと組み合わさると、目に優しくないコーディネートと化す。

部屋はさておき、これで朝のゴミ捨てに行ってしまうときもあるのだが、ご近所さんに遭遇するとちょっと恥ずかしい。でも、どんなにド派手でも、どんなにヤンキーっぽくても、どんなにダサくても、どんなにイタくても、もう誰にも何にも言われない。

だって私は自由になったのだから。そんな自由と幸せを噛みしめて、今日も真っ赤なティーシャツを着て過ごしている。