「〇〇ちゃん!あなた、どこへでも留学に行けるよ!」

大学生の頃、母が私の名を呼び、そう言った。

母が唐突にこの発言をしたのは、家族共用のパソコンで父の証券口座のアカウントがログインしたままになっていたのを発見したからだった。
母は父の預貯金額を全く把握していなかった(なんなら給料の額さえも、私の奨学金関連の手続きで知ったそうだ)。だからこの口座に入っている金額を見て、初めて「こんなにあるんだ!」と知ったらしい。

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私は留学の可能性なんてまるで考えずに生きてきたタイプだ。それに、父は妻にすら預貯金額を伝えようとしない男である。私が留学を望んだところで、この口座のお金を解放してはくれないだろう。つまり、母の冒頭の発言は完全な冗談である。

加えて言うと、口座に入っていた金額にしたって50代の預貯金額としては特に多い方ではない。「どこへでも留学に行ける」なんてほどの金額ではなかったが、うちの世帯所得は平均と比べるとかなり低いため、それにしては十分あるじゃないか!ということを表したいがための母の発言だった。

しかし、冗談にしても「お金があった場合は留学を勧める」というのが母の価値観なのだなぁと思った。

先に述べたとおり、私は留学に行こうなんて全く考えたことがなかった。小中高大と地方の公立校に通ってきて、周りでそのような選択をしている人がほとんどいなかったせいでもある。大学の同級生では、同じ専攻に1人だけ海外留学に行っていた子がいたが、彼女にしたってバイト代を貯めて卒業後に出発している形だった。

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母は実家が貧しく、留学はおろか大学進学も出来ていなかったが勉強はできた。それでいて世界史が好きで、学べるなら史学を学びたかったらしい。

独身の時は、バブル期だったせいもあるが海外にも頻繁に旅行に行っていたそうだ。自分の学生時代に実家が裕福だったら与えられたかったものの頂点が留学だったのかもな、と思った。

そういえば、母の友人から「あなたがお腹にいる間、だいぶ大きくなってからも海外に行ってたんだよ」と聞かされたことがある。

おかしいな。最近の母からは想像もつかない行いである。

母は、結婚してからは海外はおろか国内旅行にすらほとんど行っていない。一度だけ、1時間ほどバスに乗れば行ける距離の温泉に祖母と2人で行っていたが、それだって祖母が無料券を抽選で当てたからだった。

それどころか、ちょっと前には「主婦が2週連続で日曜に出かけてもいいのだろうか」と気にしていた。この「いいのだろうか」は、父の機嫌を損ねないだろうか、家を空けることは世間的に許されるのだろうか、という意味合いのものだ。父は健康体なので、母が家にいなきゃいけない特別な事情はない。

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いつからだ。
海外旅行好きだった母は、いつからこのよく分からないものに縛られるようになったんだろう。

世間の声、父の性格、父方の祖母の考えも大いに関係しているだろうが、それらが原因だ!と決めつけるには弱い。母と同じ年代でももっと自由に生きている既婚子持ちの女性もいるだろうし、父や父方の祖母に何か言われたとしてもスルーすることも出来たはずだ。

数十年の時を経て、様々な要因が少しずつ絡み合って、母の感覚を変えてしまった。
まあ、本人がいいならいいんだけど。母のこれまでの言動からすると、今の生活に納得はしてるけど満足はしてない、という雰囲気なんだよな。人間、そんなもんかもしれないけどね。