辞められないのは悪いこと?24時間手放せないスマホを肯定したい

最後に一番長い時間スマホから離れたのはいつだろうと、本テーマの発表を持ってふと振り返った。ちょうど10年前、この日は元国会議員の有名大学教授の誕生会が開催され、お世話になっていた私もそのうちの一人として参加させていただいた。
その大物には私よりも一回りほど年の離れたお弟子さんが何人もいて、その方々もまた粒ぞろいだ。その大物は52歳の時にまだ未就学の娘さんがいて、その娘さんは数いる女子大生の中から私のところへと寄って来た。
誕生会は立食形式で行われ、娘さんを喜ばせようとおせんべいをかき集めてプレゼントをすると、そのうちの一つを私に下さり、「あらー、ありがとう」 と、笑顔でお礼を言ったのだった。穏やかな時間が流れ、周囲の方との会話に花を咲かせ過ぎてしまったのか、私はその場にスマートフォンを置き忘れるという失念をした。
幸い自宅のパソコンから知人のFacebookに連絡が付き、私のスマートフォンは無事との連絡を戴いた。失念から無事手元に戻るまでの15時間は本当にハラハラとした時間だったが、最後にそれ以上の時をスマートフォンから距離を置いたのはいつだろうと考えると、それを超える時間は無かったように感じられる。
私たちが中高生だった2000年代、同世代の若者を中心にメール依存症が流行っていることが問題視されていた。理由は、繋がりが途切れることによる恐怖によるもの。私には理解できなかった。私は私でいたいのに、他人と繋がることでしかアイデンティティを形成できない同世代の人々をどこか見下していた自分がいた。だから、まだメールが主流だったガラケーの頃は、何日も携帯を開かないことがざらにあった。
それが変容したのは、携帯をスマートフォンへと変更した2012年のことだった。これまで使用していなかったインターネット機能に加えて、LINEやSNSなど、なくてはならない便利なツールが追加された。
機械音痴の私がGoogleマップを習得したのは就職活動を始めた2018年のことだったが、まだ全ての機能を使いこなせているとは言えない私の生活にスマートフォンが浸透し、生活の一部と化していった。
そして、スマートフォンが生活に占める割合は、日に日に増していっている。「スマホがあれば、なんでもできるし、どこでも行ける」というようなことが書かれた本を2012年に目にしたが、その時はよく理解できなかった。
10年以上の時が経ち、ようやく古市氏の主張を身にしみて感じている。そう、人間はとっくに生活の全てを代替できるツールを生み出しており、そのツールを使いこなすか否かによって、生活に占める割合が異なるのではないだろうか。
もちろん、使いこなす技術がありながらも敢えて離れるという選択をしている者がおり、私の概念が一部の者にしか通用しないことは分かっているが、私と同じ状態にある人も少なからずいると思う。
そんな私も30代になり、一人で旅行計画を立て、その場に出向く機会が一気に増えた。大阪万博は情報戦で、SNSでの口コミも、予約方法も、おすすめの食べ物やお土産も、全てをスマートフォンで対応し、効率的に楽しむことができた。
スマートフォンを手にしてから6年もの間Googleマップが使えなかった私からしたら大きな進歩だ。その他にも、イベントや勉強会の申し込みも、生活の何もかもがスマートフォンを使用し、もはや生活する上での必需品だ。
敢えてスマートフォンを持たないという選択肢を採る人がいることは分かっているが、私には到底できない選択だ。しかし、これはスマートフォンに支配されたなどというネガティブな気持ちはなく、私自身がスマートフォンによって成長した結果であると考えている。私は24時間もスマートフォンを手放すことができない。これは、私自身がスマートフォンとともに成長した結果だからだ。
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