私がスマホ中毒になったのは、三年前の夏、母の病気がきっかけでした。

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ある日の夕方、父から突然電話がかかってきました。父は昔から人づきあいが苦手で、私の記憶では自分から電話をしてきたことはありません。その父の名前がスマホの画面に表示された瞬間、胸が締め付けられるような予感が走りました。嫌な予感は的中しました。

「お母さんが倒れた。これから手術だ」

電話口の父の声は冷静でしたが、私の心臓は早鐘のように打ち、足元が揺らぐようでした。

そのとき私は、夫と子どもと一緒に街を歩いていました。夕食をどこで食べようかと、のんきに歩いていた数分前の自分が別世界の人のように感じられました。急に血相を変えた私に、夫は「落ち着いてから帰ろう」と声をかけてくれましたが、正直どうやって家に帰り着いたのかも覚えていません。子どもに夕飯を食べさせたのが私だったのか夫だったのか、それすら思い出せないのです。

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その日以来、私はスマホを片時も手放せなくなりました。母の容体は緊急手術でひとまず持ち直しましたが、「次はどうなるかわからない」という恐怖が消えることはありませんでした。父や病院からの連絡を取り逃すのが怖い。けれど、同時にスマホが鳴るのも怖い。そんな矛盾した気持ちに揺さぶられ続けながら、私はスマホを握りしめて過ごしました。

私は気持ちを紛らわせるために、SNSに逃げました。どうでもいい情報を延々とスワイプし、タイムラインを追いかけ続ける時間は、現実の不安をほんの一瞬だけ忘れさせてくれました。スマホの中に安らぎを求め、逆に手放せなくなっていったのです。

そんなある日、私は実家にスマホを忘れて帰ってしまいました。母の見舞いを終えて急いで帰宅した後、バッグの中にスマホがないことに気づいたときの血の気が引く感覚を、今でも覚えています。取りに戻ろうにも、どうしてもその日中には手に戻せませんでした。

「もし夜中に母の容体が急変したらどうしよう」

その不安は、想像以上に大きなものでした。幸い家にはスマートスピーカーがあり、必要があれば親と連絡をとることはできます。それでも、いつものように手元にあるはずのスマホがないだけで、心細さは何倍にも膨れ上がりました。布団に入っても眠れず、暗い天井を見つめながら朝を待った夜でした。

けれど、不思議なことに、その日は何事もなく過ぎました。母は変わらず生きていて、翌日「昨日は眠れなかったよ」と言う私に「大げさね」と笑いました。私はふっと肩の力が抜けたのを感じました。

スマホを握りしめていなくても、母は大丈夫なんだ。そう思えたのです。

それ以来、私の心は少しずつ落ち着きを取り戻しました。スマホを肌身離さず抱え込む日々は変わらず続いていましたが、「持っていなければ母の命に関わる」という極端な思い込みからは解放されていきました。あの「スマホを忘れてしまった一日」が、私にとって大きな転機になったのです。

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あれから三年がたち、母は今も生きています。命の危機を乗り越え、今では植物を育てることに夢中になっています。私はスマホを握りしめて不安に過ごす代わりに、毎日のように母と「今日は寒いね」「花が咲いたよ」といった他愛もないやり取りを交わすことが習慣になりました。画面を覗き込む時間は相変わらず多いけれど、その根っこにあるのは「不安」ではなく「安心」に変わってきたように思います。

スマホから離れた経験は、私にとって「母の命はスマホに守られているわけではない」と知るきっかけになりました。スマホは便利な道具だけれど、そこにすがりつくことで逆に心が縛られることもあるのだと、ようやく理解できたのです。

スマホを忘れたあの日の夜があったからこそ、いま私は「スマホの画面の向こう」ではなく、「目の前の母との日常」を大切にできるようになりました。