人間は夢を叶えるために生きているし、まだ叶えられてない夢がある限り、死ねない、と思って走り続けるのだろうか。

ぶっちゃけ、私には大きな夢がない。

夢を持っていない、ということではなく、大きな夢はないけれど小さな夢を、毎日抱えながら生きているのだ。たとえば、これ良いな、欲しいな、あのお店行ってみたいな、と思うことが、夢を持つこととなのかもしれない。普段はどうしても、目の前のことに追われてしまうからこそ、小さな夢がいつのまにか大きな夢になっていたりもする。

まだ、あの場所に行けてないし、ずっと欲しいものは近くにあっても、遠くにあっても触れられていない。そうすると、初めはすぐ叶えられることだったはずの希望が、気づけば大きな夢へと変形していく。そして、その分、実現できたときの達成感も大きくなる。

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10代の自分を遡れば、運命だと思う人と大恋愛をして結婚して家を買って、子供を産み育てる。まあ、絵に描いたような夢に囲まれた生活は、簡単に叶うわけはないのだが。好きな人と一生一緒にいて、好きなものに囲まれる人生を送ることこそが幸せを掴むということなのかもしれない。

そんな想像を膨らませていた子供の頃の自分なら、そんなの余裕で叶えられる、と思い込んでいたけれど、簡単に叶えられない夢だと知った今は、そんな人生がさらに煌びやかに思える。

いつの頃からか現実を知り尽くし大人になった私は、誰かに雇われることに囚われはじめていった。ここだったら、受け入れてもらえるかもしれない、働かせてもらえるかもしれない。いつだって低姿勢に構えているほうが、誰もが通る険しい道も自分らしく渡っていける気がしていた。

まるで、ペットショップで新しい飼い主さんを健気に待っている子犬のように、振る舞う。そうすると、世間で当たり前と思われがちな、大人になる過程が、大きな夢であること、実はかなりハードルが高いことだと、私は思い知らされたのだ。
それから、自分を認めてくれる場所が「居場所」になっていくということも痛感しながら、自分を大事にしてもらえる場所って何だろうと、自問自答を繰り返した。

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正直、今も夢の正体を掴めずにいる。そうした居場所に辿り着いた後も、社会は疑問で溢れていたし、世の中にはいろんな性質を持った人間がいて、いつか日本は飽和状態になって崩れるんじゃないか、とも思って怖くなった。それでも、追いかけられる夢は、私のなかで生まれては消えていく。小さな夢は叶える前に消えることもある。

とりあえず、10分後、1時間後、どうなっているかわからないけれど、今日も無事平和に過ごせますように。

今いる世界が、一緒にいてくれる人、自分を愛してくれる人が、幸せで溢れていくことが、私にとって精一杯の大きな夢であり続けるのかもしれない。