カラコンの日常使いを止めたら、遊びに行く日の特別感が増した

私が好きな顔は、童顔。くりくりとした大きな黒目が1番可愛いと思っている。大学では常に自分の好きな顔でいようと、入学式から2年間くらいは毎日カラコンをしていた。好きな顔のインフルエンサーが使っているカラコン。不衛生だが1番値段が安いため、1monthのものを使っていた。
今思えば、カラコン依存症だったのかもしれない。裸眼またはクリアレンズの自分が醜すぎる。カラコンの顔に慣れてしまうと、黒目が小さいと感じてしまう。目の大きさも小さく感じ、それに伴い顔も大きくみえる。それがいやで、部活、バイト、遊びと、毎日同じカラコンを使っていた。きっともっとおしゃれな人は、その日のなりたい雰囲気や、ファッションによってカラコンも変えるのだろう。だが、とにかくいつも黒目が大きくて童顔に見えることを目指した私は、どこに行くにしても毎日同じカラコンを使っていた。
本当はダメだが、とにかく盛りたい私は、運転免許証までもナチュラルなカラコンを使った。
転機が訪れたのは、部活の先輩とカラコンの話をした時だ。毎日カラコンで、カラコンしか使えない話をした私は、先輩にあることを言われた。カラコンだから真っ黒で目に光がないのか、ということ。なるほど、私の好きなカラコンは、そういう風に見えるのか。ブラックのレンズで黒目を大きくしているつもりだったが、確かに黒目にブラックのレンズを重ねたら、目に光がなくなるのかもしれない。
ふと、今まで遊びに行った時の写真を見返した。いつも同じ雰囲気が好きな私は、いつも同じ顔をしている。同じメイク、同じカラコン。髪の毛や服装で多少違う雰囲気はあっても、顔はいつも同じだと感じた。
メイクをしていない日のもっと日常的な写真でも同じ目元だ。当たり前だ。同じカラコンなのだから。
いつも同じ顔ってつまらなくないか。いつも盛れている。いつも盛ろうとしている。1ヶ月も同じカラコンで、目に負担をかけてまで、いつも盛れている自分でいようとしている。遊びに行く日の特別感なんて、一切ない。毎日カラコンをしているのだから。
大学3年生になってからは、多少出費は増えても、衛生的な1dayのクリアレンズを購入して使用している。だからといって、カラコンを買わないわけではない。買うにしても、色んなデザインで、衛生的な1dayのものを買っている。色んな自分を楽しみたいと思った。遊びに行く日の特別感をもっと出したいと思った。メイクに気合いを入れるだけでなく、コンタクトレンズにまで気合いを入れている日に使うのがカラコンだ。
それでいいじゃないか。一周回って、クリアレンズの黒目も特別小さいとは思わなくなった。メイクをして、カラコンを入れた日の自分は、「いつもより盛れた」と思える。この「いつもより」というのが大事なのだ。盛れたという言葉も、慢性的な可愛さではない。特別によく見えることが大事なのだ。カラコンから、クリアレンズを日常的に使い始めた私は、遊びに行く日の特別感をより感じられるようになった。
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