根っこが深い「見た目重視」の風潮。ブレない自分を作ることが大切

中学1年の頃、ニキビ面に悩んでいた。男子から「イボガエル」「ガマ」とからかわれ、ますます内向的になった。
友人たちの健康的な肌が羨ましくてたまらず、何とかしてニキビを治そうと決心した。肌についての情報に目を光らせ、市販のニキビ薬を試したりもしたが、行き着いた改善法はごくシンプルで基本的なことだった。
3本柱は「徹底した洗顔でマメに油分を取り除く」「夜更かしは程々に」「嗜好品を控えてバランスよく栄養を摂る」
血眼とはいかないまでも、常にケアすることを心掛けて地道に続けた。
中学3年の卒業間近、からかっていた男子から突然「お前、きれいになったな」と言われてびっくりした。自分ではもうほとんどニキビを気にしていなかったことに、逆に気付かされた。努力と継続の成果を、文字通り肌で実感した瞬間だった。
おしゃれのポイントは姿勢と歩き方だと、母から耳にタコができるくらい繰り返し注意されてきた。
「背筋を伸ばして直線の上をまっすぐ歩くように」
「足が痛くても我慢して颯爽と歩かなきゃ何を着てもカッコ悪い」
靴ずれの足をかばってひょこひょこ歩いていると、すかさず鋭い指摘が飛んできたものだ。
そういえば往年の映画女優は姿勢がいい。リタ・ヘイワース、エバ・ガードナー、ジャネット・リー、ジョーン・フォンテーン、デボラ・カー。
そして筆頭はやはり永遠の妖精オードリー・ヘプバーンだろう。彼女の可憐なルックスをより美しく見せているのは、姿勢の良さと上品な身のこなしだと思う。映画を観ていると、その所作が魅力を倍増させていることがよく分かる。
持って生まれた顔の造作は致し方ないが、姿勢と歩き方は心掛け次第だ。いくつになっても背筋を伸ばして颯爽と歩く女性でありたい。
1980年代後半、夫の転勤で名古屋に5年余り住んだ。世はまさにバブル絶頂期で、繁華街を闊歩する老若男女の華やかさが眩しかった。
20代半ばだった私は、娘を保育園に預けてパート勤務をしていた。そこで親しくなった同年代の女性は、センスのいい独身の美人。一緒に映画や買い物に出掛けるようになって、私の中にちょっとした変化が生じた。昔からおしゃれに無頓着だったが、彼女と一緒にいて「恥ずかしくない自分になりたい」という願望が湧いたのだ。
彼女を見るうちに、「似合う」ことが装いの基本であることが分かってきた。「自分に似合う服装」を意識するようになると俄然おしゃれが楽しくなった。
再び転勤で関東に戻った時、周囲から異口同音に「垢抜けた」と褒められた。遅ればせながら、ファッション開眼のきっかけをくれた彼女に大感謝だ。
以前、「人は見た目が何パーセント?」という内容の記事を読んだ。読む程に、正解のない不滅のテーマだとつくづく感じた。
新聞やネットの人生案内には「外見にこだわる」という主旨の相談が絶えない。回答は決まって「内面を磨きましょう」だ。
「人は見た目が9割」がベストセラーになった通り「見た目重視」の風潮は根っこが深い。
私の娘は10代の頃から一重瞼を気にしていたが、とうとう大学生の時、「バイト料で払うから」と整形の承諾を求めてきた。
娘の固い決心と真剣さを知り、とても反対は出来なかった。化粧でカバーできると諭しても「素顔で二重になりたい」と頑固に言い放つ娘に、「外見より中身が大事」などという嘘くさい価値観は通用しなかったのだ。
外見の美しさを求める若者の姿は、メディアに踊らされ「人は見た目」と断言して憚らない現代社会を、そのまま映し出しているようにみえる。ばかげていると頭では理解できるが、世間の価値観や風潮は、簡単には揺るがないだろう。それを無視して生きるには強靭な鎧が必要になる。
問題なのは見た目重視の風潮より、自分を卑下して悩んだり、塞ぎこんだりすることだ。世間の価値観を踏まえ、ブレない自分を作り上げるべく、適切な対策を練るのが賢明だろう。
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