「休日は何をしているの?」
「読書をしていることが多いですね。最近は料理も練習しています。」
「へえ、可愛い。女性らしくて良いね。」
「いや、私は自分が好きなことをしているだけですので(笑)」
「へえ~。本当?(笑)」

「可愛い。女性らしくて良い」その褒め言葉、令和の世でも使いますか?

これは最近知り合った男性と私が交わした会話なのだが、皆さんはどう思うだろうか。
私は「可愛い。女性らしくて良い」を誉め言葉として使う男性が令和の世にもいるものなのか、とある意味驚いてしまったのだが、私が世間知らずなだけなのかもしれない。
または、この手の男性とはできるだけ関わらないようにしているせいなのか。いやいや、それにしても最終行の発言はなかなか失礼ではないか?
ピンクやレースやキラキラが好き。髪もゆるふわロングでいつもスカート。趣味も上記の通り。私の趣味や好みはどうやら一般的「可愛い」や「女性らしい」に一致することが多いようで、男女問わずこのような言葉を返されることは多い。
昔は特に何とも思っていなかったけど、年を重ねるにつれて、このような反応に対してもやもやすることが多くなった。
言うまでもなく、私の好みは私が私の価値観によって選んだものたちで形成されている。そこを「女性らしくて可愛い」の一言で片づけられてしまうと、自分は結局、「女性」という目でしか見られていなくて、私の個性のようなものはどこに行ってしまったんだろう、と心もとなくなる。
いわば、「可愛い」の一言で押さえつけられてしまったような気分になる。

場面や誰に言われるかによって、意味も立場関係も大きく変わってくる

「可愛い」の一言は私にとって良くも悪くも強烈であり続けている。「可愛い」という言葉は私が好きな言葉の一つでもあるはずなのに、誰にどのような場面で言われるかでもその意味は大きく変わってくる。この言葉は時には私の個性を奪い、私を押さえつけてくる存在にもなる。
年下の女性である私が年上の男性に対して何か発言なり主張なりをする。そんな大げさな話ではなくて、趣味の話とかである場合が多いのだけど。相手は笑って「可愛い」と反応する。こうなってしまうと、自分が何をどう言おうと、相手の目には自分より年下の女性、いや、年下の女の子が何か一生懸命主張しようとしているな、というようにしか受け取られなくなってしまうような気がしてくる。一生懸命自己主張しようと強がる女の子とそれをおおらかに受け止める年上の俺、という意識が透けて見えるような気がするのだけれども、これは私の邪推ではないと信じている。この立場関係が「可愛い」の一言で確定されてしまうと、そこから私自身が抜け出ようと努力したところで、結局は大人が子供に対するような反応しか返されなくなる。丁度、上記の会話の私と相手それぞれの最後の発言のように。

虚しい。

不本意なカテゴライズによる存在否定は、仕事でも起こりうる

こういうことを仕事をする中でも感じる女性は多いのだろうか。私はアルバイトしかしたことが無いし、それほど多くの人とかかわったこともないからよく分からない。でも、あり得ることだと思う。若くて女性だというだけで意見を聞いてもらえない。このようなことが無いとは言い切れないし、これは今回の「可愛い」の話にも関わってくる部分だと思う。

「可愛い」で押さえつけられた経験は、あなたにもあるのではないでしょうか。自分が不本意にもカテゴライズされ、自分個人の存在が否定されたかのような虚しさを、経験したこともあるのではないでしょうか。男女平等が進んでいるように見える世の中でありながらも、日常生活の中でもやもやしてしまうことが無いとは言い切れない、今日この頃の思いを綴ってみました。