先日、友人の結婚式に参列した。
冬場の結婚式ということもあり、ドレスだと寒いかな、という単純な理由から「振袖」で行くことを決めた。

結婚式の少し前に、友人がSNSで女性タレントが50歳にして振袖を着た、ということに関して触れていたのをみた。
友人は「未婚の30代くらいまでの女性が着る振袖。いつか着たいと思いつつ、なかなか機会がなかった。今のところ結婚の予定もない。このまま着る機会がないまま30代を迎えるのかと思うと少しつらかった。だけど、いつでも好きなものを着ていいんだと気づかされた。うれしかった」とつぶやいていた。
私自身、このエピソードを聞いて、すごくうれしかった。
やはり、人は好きなように生きていいのだと。自分のペースで、好きな時に好きなことをしていいのだと。

揺れる世間の「べき論」と私の「好きな通りに」

けど、実際世間はどうなのか。
本当に「好きな通りに」してもよい世の中なのか。

別のSNSを開けば、友人やそのまた友人の結婚式に参列した報告。
また別のSNSを開けば、マッチングアプリの広告が嫌でも流れてくる。
なんどもなんども、「興味がない」を選択して広告や似たような投稿を非表示にしても同じことの繰り返し。
毎週届くLINENEWSの一覧にさりげなくうつる「今日の恋愛運」に目をつむりたいのに、なぜかついリンクを開いてしまう自分も情けなくなってしまう。

ひがんでいるわけじゃないと信じている。
彼氏がいない自分に負い目を感じているわけでもないと信じている。
半年前、恋愛依存症な自分が嫌いになって、けじめをつけたくて、自分から彼氏に別れを告げたことも、正しかった、と信じている。

ただ、「自分のペースで運命の人を見つけたい」と願うことが、「のろま」だといわれているように感じて、逃げたくなってしまう。
本当はそうやって「自分のペース」という言葉に甘えているんじゃないか、仮に「自分のペース」があったとしても、「運命の人」など自分にはいないのではないか。

幸い、両親は「結婚は焦らなくていい」と言ってくれている。ありがたいことだ。
「自分に合う人と添い遂げるほうが絶対幸せだ」とも言ってくれる。
けど、幼いころ、「いつかバージンロードを歩こうね」と誓った祖父は、「わたしがひらひらのドレス着てるところ見せてあげるね」と宣言した祖母は、あのころとは違い、デイサービスに通い始めた。
記憶もところどころあいまいになっている。

幸せペースを示すものがあったなら

早く約束を果たしたい。
けど。
自分のペースを守りたい。

何が正解なのだろう。
どうすることが自分にとって幸せなのだろう。

「自分のペース」「大切な人のペース」「世の中のペース」

どれに基準を合わせれば、果たして幸せなのだろう。
世の夫婦たちは、いったい、どの基準に合わせたのだろう。
世のカップルたちは、カップルになる人たちは、どのペースをつかんだから「恋人」になれたのだろう。

そんなことを思いながら、わたしは振袖を着た。
成人式ぶりに振袖を着ると、普段の歩幅では歩けないことに気づかされた。
ゆっくりゆっくり街を歩いた。
「女の子に生まれたんだから」と祖母が買ってくれた振袖が風になびくと、普段の洋服では感じれない、何か特別なものを感じた。

こんなゆっくりな歩幅が、恋愛や結婚にも許される世の中になってほしい。