社会人になりたての頃、私はひたすらに「正解」を探していた。それは物心ついたころからの当たり前で、小学生なら先生のいう事をよく聞き指示に従う事が、高校生からよりよい大学に入るため、あるいは理想の職業に就くために努力する事が、誰からも文句の言われない「正解」だった。いい大学に入ってちゃんとした社会人になる事、そこまでなら、推奨される道が用意されている。

絶対の「正解」を実行する事は私にとって簡単な作業だった

そんな道を特に疑問を持たずに辿った大学生だった私にとって、社会も会社も誰かの与えてくれる「正解」があるものだった。だから、その「正解」をずっと探していた。先輩の指示を聞いてその指示にちゃんと従う、慣れてくればその先の事にも意識を巡らせたり作業の効率を上げる、新人の時のそんな態度が良かったのか、社内では優秀な人というイメージが定着していった。「正解」の中で、求められる事をする。大学生までの延長でどうにかやって行けそうだと思い始めた頃、私は担当する仕事が変わった。

「今までと同じように、先輩の指示に従って私の仕事をすれば大丈夫」。そう思って、臨んだ仕事で、一緒に担当することになった先輩は、私に「正解」を教えてはくれなかった。
「ここなんですけど、どうしたらいいですか?」
私のこの質問に対して、以前だったら、こんな感じにっていう大体の正解を教えてくれて、それに従って作業をしていたのに。私に返された言葉は、
「どうしたいの?」
だった。

「正解」から外れた失敗。とっさに浮かんだのは、「失敗したくない」

その言葉に対して、とっさに浮かんだのは、「失敗したくない」だ。
失敗とは何か、それは「正解」から外れる事。だから「正解」を尋ねているのだから。
「どうしたらいいですか?」に対して「どうしたいの?」。質問に質問で返すなと思いながらも、一方でこの場での「正解」が「それを聞いています」でも、もちろん「失敗したくないです」でもない事は明らかだった。

「えっと、これとこれが間違っていると思うので、こちらに直したいです」
精一杯、「正解」に近いと思うもの、これが私の全力で先輩ならもっと良い「正解」を知っていると思っていた。
「うん、いいんじゃない」
そんな簡単な返答だ。でもそれが初めて全く「正解」が分からない状態から私の出した答えに対する返答だった。

社会には、ただ一点の「正解」や「間違い」はないんだ

「どうしたいの?」
その一言が私の「正解」を広げてくれた。社会って場所には、ただ一点の「正解」と、そこまでの一本道があるわけではない。「正解」はその時々で変わる。今の「正解」がこの先もずっと「正解」とは限らない。だからこそ、やり直しも再挑戦も許容されると。何もかもを我慢してまで、最速で「正解」にたどり着けるほど単純ではなくて、その分たくさんの時間が用意されている。ゆっくり寄り道してもいいのだと。そして、もしかしたらその寄り道こそが、いつか「正解」になる事もある。
この先ずっと「正解」のままとは限らなくても、その時を後悔しないために、私は私に問いかける。
「あなたは、どうしたいの?」