三年と少し、付き合っていた恋人をふった。
彼が告白してきた時、私は自然と「長く続くような気がする」と感じていた。8つも歳の離れた彼は、私にとって恋人でありながら、兄のようでもあった。私よりずっと大人なはずなのに、まだ子どもらしいところもあった。わけのわからないゲーム実況を見て死ぬほど笑ったり、お互いつらい時にベッドの上で抱き合って泣いたり。とにかく一緒にいて飽きない。
年齢による壁があるはずの私たちは、その壁のことなどずっと忘れていた。
けれど、思い出してしまったのだ。私が。

会うことをしばらく控えた途端、人生について深く考えるようになった

今まで通りにいかない生活が、私に思い出させてしまった。
私たちには、変えられない現実がある。

毎日当たり前のように連絡を取り、毎週のように会っていた。常に彼のことが頭から離れない生活。しかし人間とは不思議なもので、会うことをやめればその分、違う考え事が脳内を埋めていく。
そうだ。私は大学院進学を希望する大学生。彼は結婚適齢期真っ只中の社会人。

家から出なくなって、会うことをしばらく控えた途端、私は自分の人生について深く考えるようになった。両親と真剣に話しては、自分が置かれている環境と真っ向から向き合う時間が増えた。
21歳の私には、まだ人生を選択するチャンスがある。
これからの人生、どう生きようか。これまで受験に失敗し続け、あと一歩のところで目標達成を逃し続けては、思うようにやりたいことを成し遂げてこられなかった私にとって、それは大きな悩みの種であることに違いなかった。
そして気づいた。私は彼のことが好きだ。大好きだ。彼の隣は居心地がいい。嫌なことを全て忘れられる。
ああ。私は、彼に甘えすぎている。

だからきっと忘れていたんだ。
自分の思うように生きられていないという現実を。

彼が中心になっている生活に対する違和感だけが私を支配した

それを思い出した途端、彼のことが中心となっている自分の生活に対する違和感だけが私の体を埋め尽くした。ずっと水の中にいるような苦しみが、私にのしかかった。自分で蓋をしたはずの箱を開けたのは、果たして正しかったのか、否か。考えても考えても、違和感だけが増幅していってしまう。

自問自答を繰り返して、時間をかけて何日も悩んだ。そして私は決めたのだ。
大好きなうちに別れよう。
増幅していく違和感が、嫌いという感情を作り出す前に。
やり残したことは腐るほどあった。一緒に行きたいところもまだたくさんある。でも、彼と私の人生を天秤にかけた時、迷わず自分の人生を選んだ私がいた。いつかピリオドを打たなければならない。ずっとお互い分かっていたはずだった。でも彼が自らピリオドを打つことはないだろうということを、痛いほどにわかっていた自分がいた。
なら私が打とう。打つなら今だ。そう決断してから実行するまでの時間は長くはかからなかった。

いざ別れてみれば、その瞬間は思っていた以上にあっさりで、けれど後々ゆっくりと私を苦しめた。初めて人を振ったからなのか。一人で悩みこんで彼を切り捨てた自分に対して、嫌悪感が生まれた。彼に対する罪悪感に駆られた。
布団に潜り込んだ途端、涙が溢れて眠れなくなった日もあった。
24時間という時間の区切りが、見えなくなってしまった気がした。

彼との思い出はドライフラワーにして、本のしおりにでもすればいい

最近「ドライフラワー」という曲が流行っている。
私も大好きな曲だ。何回聴いたかわからない。何回歌ったかわからない。
あまりに苦しくて押しつぶされそうになった時、あんなに楽しかった思い出も色褪せる、というような歌詞が耳に残った。聴いた瞬間に感じたのは、恐怖に近い感覚だったような気がする。三年という月日が作り出した色彩は、またいくらかの時間が流れたら白黒になってしまうのか。

いや、ドライフラワーはすぐに白黒にはならない。元の色彩は、丁寧に扱っていれば、簡単に失われはしない。
どれだけ違和感が生まれても、違和感が彼に対して不信感のようなものを引き出しても、彼のことを完全に嫌いになれなかった私は、彼との思い出を忘れることはできなかった。
それならば、色あせてでも、誰の目にも見えない胸の奥で抱きしめていればいい。彼との思い出は、ドライフラワーにして、本のしおりにでもすればいい。
そう思った時、すっと心が軽くなった気がした。お別れをしたことに対して後ろめたさを感じていた自分が、前を向くことができた瞬間だった。

人は時に泣き、傷つく。けれどそのぶん、成長することができる。
私は成長するために、彼の彼女を「卒業」した。
でも卒業しても忘れはしない。
彼からもらった三年分の花束は、この私の手で、美しいドライフラワーにするのだ。もっと強く、もっと自分のことを好きであれるように。