小学生の高学年頃から、自分の立ち位置が分かりはじめた。来るもの拒まず、去るもの追わずが当時のスタイルだった。
なので、特別仲のいい友達はおらず、その時1人になっている子が自然と来て、たわいもない話をして去って行った。そんなスタイルでいると、その時その子が求めていることが何となくわかっていった。
好き嫌いや苦手意識が「はっきりと表面化」されてきた中学生の頃
中学生になると、“人間関係”という言葉をよく耳にした。好き嫌いや苦手意識がはっきりと表面化され、少し殺伐とした空気感が学年中に漂っていた。
私も苦手意識は出ていたが、好き嫌いなどの思考はなく、小学生の頃と変わらず平和だった。けれど、気づけばその空気に引きずり込まれた。被害者だ。
何故だろう……と被害者面して、わからないフリをしてみるが見当はつく。男の子と話をしていたから。それだけ。何かアクションをするつもりもない、時が解決するのを待った。
後輩ができて、気づけばまた同じ空気にいた。しかし、今回は違う。思考が成長した私は、気づいたのだ。加害者も被害者だと。
あの子も同じようなことで、他の子達と空気を作っている。そして、私もその事で苦手意識がある……。なぁんだ、一緒かよ、同族嫌悪かよ。
心が晴れて、スッキリした。その日の帰り道は、雨上がりの青空だった。最高の気分。道路の水たまりには、青空が映っていた。鏡みたいだった。私は、その鏡を自転車のタイヤで粉々にして帰った。
それからは、見せ方が楽だった。ひたすら他人を見た。自分が苦手だなと思った行動をひたすら見つけ、見つめ直した。来てくれたら、細心の注意を払いながら、その子の求めてることを考えた。
最高に楽しい。生きてる。自分にしかできない事。そう思いながら、中学生活を送った。
高校生になっても「来るもの拒まず去るもの追わず」のスタイルだった
高校生になると、一つわかったことがある。みんな大人だ。みんなが成長した。無闇にあの空気に引きずり込む、なんて事をしなくなった。
均衡で平坦でデコボコ道なんてなくて、それでもあの狭い空間だ。他所では多々あったようで、当事者たちは悩んでいたみたい。私は、完全に他人事にできた。
来るもの拒まず去るもの追わずの私でも、クラスや部活で友達はできた。今までの見せ方でも過ごせた。何も考えずに当たり前に過ごした。
大人になった今も、その見せ方は続いている。そしてこれは、私だけのものではないという事にも、とっくに気づいてしまっている。他人に嫌われないような見せ方をしてきたからか、特質するものがない。学生時代に続けたスタイルのせいか、去られても手を出して引っ張れない。
自分には何もないと気付かされる。最高に楽しくはない。けれど、それしかできない。人間関係の象徴の青春時代をそれで過ごした私には、生きやすい見せ方しかもうできない。
大人になってから、見せ方は変えずに「生き方」を変えた
だから、私は私らしさを探す。見せ方は変えない。生き方を変えた。地元の職場を辞めて、上京した。地元にいたら絶対にしないだろうと思う職業を選んだ。同学年の子にはバカにされるだろうけど、生きづらい生き方を選んだ。最高に楽しい。
今私は、レンタカーショップと保育園でバイトをしている。車社会の地元では考えつかない職No.1で、運転が嫌いだった私が変えたいと思って選んだのだ。
保育園では、子供たちの生き方を見ている。見せ方なんて考えていない乳幼児。生き方を探っている子供達は、カッコいい。同じく生き方を探っている私にとっては、子供達といると毎日が最高に楽しいのだ。
どんなに生き方を変えても人間関係はつきもので、見せ方で後悔してばっかだ。いつか生き方の変化が、見せ方の変化に繋がると信じている。そして、そのいつかは確実に触れていて、確実に私自身になっている。
私はこれから何度だって生き方を変えて、見せ方を変化させるだろう。その瞬間が、今から最高に楽しみだ。