私が生まれてからこの方、父親というものが家にずっと滞在したことなど一度もない。小さい頃から小学校までは、父親の仕事に付いて私も海外を転々としていた。それもあって日本で生まれたはいいが、覚えた最初の言語は日本語ではないヨーロッパの言語だった。

年数が経ち、日本に戻ってきたが、今度は英語圏の南国に連れて行かれた。両親が日本語を話していることから、家では日本語だったが自分の中では3カ国語が巡っていて、どれも色々中途半端だったと思う。

今となっては、色んな人種の人や言語と出会い、そこに暮らし馴染もうとすることが当たり前だったことはとても人生を豊かにしたと思えるが、当時はあまり良いと思えたことがなかった。

父の転勤や単身赴任だった幼少期、私の家は普通じゃないと気づいた

家に海外の人が出入りしたりすることが当たり前で、週末に普段いない父親に会うために飛行機に乗って結構な頻度で海外に連れて行かれたことに対し、私は普通だと思っていた。

しかし、これはどうやら当たり前ではないということが、段々学校という社会に行くにつれてわかってきた。当時はビデオ通話なども発展しておらず、たまに電話をするくらいだったため、父親というものは遠くにいてたまに会える人そんなものだと思っていたのだ。

小学校の行事などで、クラスの友達のお父さんがみんな率先して見に来たり、「週末はお父さんがいつも遊びに連れて行ってくれるんだ~」「お父さんが休みの日は家族みんなで外食行くんだ~」という話を聞くうちに、うちは普通ではないと気づいたのだった。多くの家庭は、お父さんも家庭や子供のことに関わっているのかと。

子供ながらに母親1人で、それをこなしてきている凄さを悟った。父親は、仕事一筋で特に家庭に自分から入り込むこともない人だったため、父親の元に母と時間を見つけては行ったりといった生活だった。

家族に迷惑かけているのは父なのに、なぜ私が激怒されないといけない

中学生に上がると私は段々に擦れてきて、夜まで友達といることが当たり前になっていた。ある日帰ってきた父親に、そのことについて激怒された。「そんな育て方をした覚えはない」「親に迷惑をかけるな」といったことを言われた。私が悪くて怒られたのだが、無性に腹が立った。

この人は何なのだろう。何故一番迷惑をかけている奴に、家に遅く帰るくらいで怒られているのかわからない、育ててもない奴に育てた風なことを言われ、こいつはどの立ち位置で物を言っているのかと思った。

うちは共働きで、父親の仕事は研究職に近く、どちらかというと母親の方が経済的な大黒柱であることも知っていたため余計にであった。父親は父親で、母親が困っているから、ここは俺がガツンと言わなくてはと思ったのであろうが、私からすると自分を棚に上げて物を言いやがって、とこれに尽きた。母親は父親を止めに入り、私には「お父さんに謝って、これから気をつけるように言いなさい」と言ってきた。

母親に謝るならわかるが、なぜ私が父親に謝らなければならないのかさっぱり理解できなかった。私は無言で立ち去り、絶対に謝らなかった。こういう時の頑固さは計り知れない。自分の正義をねじ曲げたくない、ここで曲げたら私が廃れるとでもいった感じだった。おかげで、私はそこら辺から1人で育ててきた母にさえも最悪な態度を取るようになった。

母親1人で、祖父母と協力して大変な思いをして育ててきているだけあって、家庭は厳しかった。門限や試験への取り組み、受験勉強、友達付き合いなど、全てが今思えば大変窮屈で、何故周りはこんなに生き生きして楽しんでいるのに、私はこうなのかと思ったことも何度もある。おかげで反動で激しく反抗期が訪れ、両親に対し悪態をつくようになったのだろう。

ずっと遠く離れた所から、「父の背中」を見せていたのだろうか

歳をとってもやはりあの時の出来事が完全に私が悪いとはならなかった。私を厳しく育てたのは、きちんと育ってほしいという母親の思いからだったことを理解できなかったこと、母親に対しひどい悪態をついたこと、決まりを破り迷惑をかけたこと、これについてはしばらくして本当に申し訳なかったと思えた。しかし、しばらく経っても自分を棚に上げて、親面されたことには理解がいかなかった。

結局、理解ができないまま大学受験を迎え大学、社会人と歳を重ねた。大学受験当たりから、やたら将来にアドバイスをしてくるようになった父親。気づけば父親と同じような道に進み、海外を見据えている。

ずっと遠く離れた所から、父の背中を見せていたとでもいうのだろうか。反面教師なもので、あれからずっと人に意見を言う時は、自分を棚に上げて話していないか気にするようになった。ある意味では、学んだのかもしれない。

きっと父親も不器用で母親に頼りきっていて、娘とうまく接することができる年から物を言ってくるようになったんだなぁ、母親はそれを理解した上で生きていたのかと、今は思えるようになった。

そう思えるまでに14年。今ならようやく謝れる気がする。お父さん、あの時はごめんね。