「パパ」そう呼べなくなったのは、恐らく中学生の頃。始めは、反抗期だった。自営業の父は、ヨレヨレのTシャツと短パンで仕事をしていた。友人たちのお父さんは、スーツを着て会社に行き、時には出張もあるのに、父はいつでも家にいた。そんな父の働き方が、当時の私には格好悪く見えていた。

そして、気付けば段々と会話も減っていた。父の呼びかけにも答えず、いつの日か父から話しかけてくることもなくなった。

母が突然家を出てから、父は私と妹を怒鳴り、暴言を吐くようになった

反抗期が終わる頃、母が突然家を出た。それと同時に父は、残された私と妹を怒鳴るようになった。家を出た母への怒りを中心に、父はとにかく全ての怒りを暴言とともに吐き出した。毎日毎日、家に帰るのが憂鬱だった。父の足音が近づくと怖くて仕方なかった。

ストレスで体調を崩し、病院に運ばれたこともあった。それでも父は、私の不調を見て見ぬ振りし、怒鳴ることをやめなかった。父の暴言に対し、少しでも言い返すと「何不自由ない生活させてあげてるんだから、これくらい我慢しろ」父はいつもそう言った。

確かにそうだった。父は私たちのために毎日働き、日常生活や学校生活はもちろん、習い事や娯楽など、必要なお金は全て払ってくれていた。暴言は吐いても、暴力を振るうことはなかった。そう考えると、父の言葉の通り、怒鳴られることくらい我慢するしかなかった。

そう思いながらも、父への怒り・恨みは消えることがなかったが、幸い私は、部活やクラスメイト、先生など、学校の環境に恵まれていた。家庭外での楽しみを生き甲斐に、毎日の苦しみを、かろうじて乗り越えることができていた。

父に「出来損ない」と言われた悔しさをバネに、受験勉強に励んだ

「出来損ない」「不良品」そう言われた悔しさをバネに、父の出身大学よりレベルの高い大学への合格を目指した。現役で合格し、一刻も早く実家を出られることを心から願い、受験勉強に励んだ。

受験期も父の言動は変わらず、苦しい受験生活だったが、先生方の学業・精神面のサポートのおかげで、目標の大学に合格することができた。父の口から「おめでとう」という言葉を聞くことはできなかったが、父の友人から、父が娘の大学合格を自慢していたと聞いた。父にとって、少しはマシな“不良品”になれたかなと嬉しくなった。

大学進学を機に家を出るまで、父の感情に振り回される生活は続いたが、一人暮らしを始めると、少しずつ元通りの“家族”へと戻りつつあった。「3人でご飯行くか?」と、帰省した時、父が照れ臭そうに言った。相変わらず口下手な父だが、この時、私たちは家族として確実に一歩前進した。

あの頃は怒鳴られるたび、父にとって私は邪魔な存在なのだと思っていた。けれど、残酷な言葉を口にしながらも、大学進学まで支えてくれたのは、きっと父にとって娘たちの成長が唯一の喜びだからだろう。

だから、私はせめて父に誇ってもらえる生き方をしたい。自慢の娘だと言ってもらいたい。父のように、仕事に一生懸命な人間でありたい。それが私にできる、父への一番の恩返しだと思う。

過去の父の言動を恨むのをやめ、喜びを「共有できる関係」になりたい

大人になった私は、父への怒りを持ち続けることよりも、父と妹と“家族”になることの方が大切だと思っている。過去の苦しみが消えることはないけれど、父だって苦しいことを沢山経験してきただろう。

もう、過去の父の言動を恨むのはやめよう。かなり遅れたスタートだが、これからは、お互いの苦しみを癒し、喜びを共有できる関係になりたい。それが家族だと思う。私の反抗期から始まり、少しずつ壊れていった私たちの家族の形だが、今もう一度“家族”になろうとしている。

幼い頃は父の仕事を恥ずかしいと思っていたけれど、今では父の背中は誰よりも頼もしく、カッコよく見える。世界にたった一人の、誇れる父である。パパ、いつもありがとう。