私が父親の顔を見て話したのは、小学校3年生が最後です。それからは、文字だけ。父親と私は会うことはありません。

私にとって父は家族を大事にしてくれていたが、母にとっては違った

私の覚えている父親は、大きな車に乗って、サザンオールスターズか、安全地帯か、スピッツの曲を流しながら、私を大きな川へ遊びに行くか、デパートのイタリアンレストランへ連れて行ってくれました。私が喜んだところしか連れて行かなかった気がします。

当時の私は子どもだし、小柄だったので車の後部座席はまるで大きなベッドでした。仰向けになれば、大きな窓から綺麗な空が見ていたのを今でも思い出します。父親は時々歌を歌いながら運転して、着いた後に私から離れてタバコを吸っていました。

私にとっての父親は、家族を大事にしてくれているように見えていましたが、私の母親にとってはそうではなかったようでした。父親から離れる時の記憶が私は曖昧です。きっと見たくなかったのでしょう。私は泣いている母親を守るために生きていこうと、小さいながらに感じたんだと思います。

それから少しして、急に父親が会いにきたことがありました。私は大泣きして、父親へ「こうなったのは、全部お父さんのせいだ」と言いました。

私は当時、父親を憎んでいました。母親を傷つけた張本人が、目の前にいると思いました。私は母親を守るために、父親と戦わなければならないと思いました。父親は一言だけ、「そうだな」言いました。それが父親との最後の会話です。

誕生日の時は父から必ずきていた手紙も、次第にこなくなってしまった

それから父親から時々、手紙がくるようになりました。でも、頻回ではありません。思い出したように、誕生日に手紙がくるだけ。私はこの時、父親にとって自分はなんなのかわかりませんでした。

だから手紙の返事は定型文で、本当に思っていることは決して書きませんでした。そうして、父親から手紙さえ来なくなりました。

父親のいない家族に慣れてしまった私は父親のことを考えなくなっていたので、手紙がこなくなったこともどうも思いませんでした。そうして私は日々生活をして、夫と出会い、地元を離れ、結婚しました。

夫の両親は地元から離れた私をかなり気遣ってくれ、よく食べ物をわけてくれたり、一緒にお茶でもしようかと声をかけてくれます。すごく嬉しいことでしたが、何故か寂しくてたまりませんでした。

夫が羨ましい。そう思うようになってきたからです。特に義父と夫が話している様子を見ていると、たまらなく羨ましく感じました。

父と会えなくても、「手紙」でやりとりだってできたはずなのに…

忘れていたと思っていた父親は、ずっと私の過去にへばりついていました。私もああやって父親と関わりたかったと気づいてしまいました。会えなくても、手紙でやりとりだってできたはずなのに、私はそれをしなかった。もう一度、父親と話がしたいと思いましたが、家族の誰も父親の所在を知りません。そして、今に至ります。

今なら父親がどんな思いで、あの時会いにきてくれたかわかるような気がします。だけど、私はそれを拒絶した。父親は傷ついただろうと思います。

お父さん、ごめんなさい。どうか私を許して欲しい。会っていない間、私はどうやらずっとあなたを思っていたみたいです。どうか健康で、そして幸せでいてください。私の小さな祈りです。