週末がやってくる。

あの頃、すべての子供たちが週末を待ち望んでいた。でも、私には特別な理由があった。父が帰ってくるのだ。

「うるさい」と思っていた父のいびき。でも、離れてみたら恋しかった

私が小学校3年生の時、父は単身赴任で福岡での生活を始めた。金曜日の24時前着の高速バスで熊本に帰り、日曜日の夕方にまた福岡へ。

いつも隣で寝ていた父と一緒に、ふすまが揺れるほどのいびきもなくなった。「うるさいんだけど!」いつもそう叫んで父を起こした。シーンとした夜を望んでいたはずなのに、なぜだかそのいびきさえも恋しかった。

母がしまった父の枕を引っ張り出しては、縦向きにして父に見立て、抱きしめて寝る。枕を濡らした夜を何度過ごしただろうか。だから、いびきが聞こえる週末が楽しみだった。

中学生になる春に、初めて一人で福岡の父の家を訪ねた。一緒に行った福岡タワー。アルバムを見返せば、写真が苦手な父はどれも、面白いほどに真顔だ。当時は恥ずかしかったのか、私も同じように無表情。楽しかったはずなのにと、今見れば何かむずがゆい気持ちになる。

高速バスに乗る時、父はまた真顔だった。家族が作る料理を食べても、なかなか美味しいとは言えない不器用な人だ。それでも、私が乗る席の横に立って、いつまでも手を振ってくれたことが嬉しかった。

バスが発車したあと、涙が溢れてきた。別れが悲しかったのか、父と一緒にいれて嬉しかったのか。どちらもあるけども、一番は父の孤独を思っての涙だった。

人酔いするほどの大都会。それなのに、父の住むワンルームマンションに行くと、さっきまでの喧騒が嘘のように、外世界から一気に切り離された。その中で働き、週末は熊本に帰省。優しく家族思いの父は、部活の送迎も快く引き受けて、観光で色々な場所に連れていってくれた。

熊本地震で父と姉の姿が見えなくて、私は泣くことしかできなかった

中学3年生になった春、熊本地震が発生した。本震は土曜日の午前1時25分。父は最終バスで帰り、お風呂から出たところだった。洗濯機が倒れてきて、怪我を負っていた。それでも、「後から追う」と私と母を先に逃がした。

エレベーターが使えないので階段を使う。頭が真っ白になって、ただただ夢中で駆け下りた。外に出ると、人がたくさん集まっていた。階段から次々と人が降りてくるのに、父と姉の姿が見えない。心配で泣くことしかできない自分が嫌だった。

しばらくして、父と姉が目の前に現れた。泣いている私を見て父が「なんで泣いとるとね?なんで泣いとるとね?」と私の肩をつかんで、繰り返し聞き安心させてくれた。「もう帰ってこんかと思ったもん」と言って泣いていた私は、普段口数が少ない父がこんなに必死になって話しかけてくれたのが衝撃だったのか、すぐに泣き止んだ。

地震後、しばらく父は熊本に残った。あの時、父がいなければどうなっていたのだろうと時々考える。

私が書いた手紙の内容を今も気にしてくれている父の思いが嬉しかった

でも、いつからか父に対して、向き合わないようになってしまった。あからさまに仲が悪くなったというわけではない。時が経つにつれ、自分の世界が広がって、それぞれに時間を割くといつも後回しになっていた。

だが最近、姉と話していて気になることがあった。福岡の父のそばに暮らしている姉は、2人でよく食事に行くらしい。この前行ったというお店の話を聞くと、姉は「パパからあんたに言わんようにって言われとるんだった」と言った。その理由を尋ねると、姉は「小学校を卒業する時に、手紙書いたでしょ?それに『私より早く生まれたからって、パパと長く一緒にいれたお姉ちゃんがずるい。もっと一緒にいたかった』って書いてたけん、パパはそれをずっと気にしてるんよ」と答えた。

そんなに前のことを気にかけてくれていたのか。父の優しさに驚いた。「そんなのまだ気にしてんの」私はそう言って、それほど思ってくれていたことに、照れくさくて笑うことしかできなかった。でも、たまらなく嬉しかった。

何か機会がないと、私にはまだ口に、文字にすることはできないけれど、本当に心の底から思っています。私の自慢のパパ、ありがとう。大好きです。