私の家族は4人構成である。頑固な父、これまた頑固な母、しがないオンライン大学生の私、今をときめくJK妹。

男性は父親ただ1人で、しかも男が3人いて女性が1人しかいない、という家庭で育ってきた。

女性陣は、一緒に服を見に行ったりパンケーキを食べに行ったり、まるで3姉妹かのように、よく行動を共にする。

我が家の女性陣は生理周期がかぶり、その期間はゴミがすぐに溜まる

ところでこんな我々女性陣だが、体の中まで3姉妹してしまっているのか、月経周期がかぶる。始まってから終わるまでの一週間、そっくりそのままかぶる。この忌々しい周期が同時に3人分もやってくると、我が家では何が起こるかというと、生理用品の大量消費、そして大量破棄である。

丸々1パック残っていたナプキンが、1日後には切れている、なんていうことはざらである。その分、不要となった生理用品たちが、ゴミ箱の中に急スピードで溜まっていく。

ゴミ箱も、数日単位で中身を全部まとめてゴミに出さなければ、たちまち使用済みナプキンの山ができてしまう。縦×横が10センチ×10センチ、高さ15センチほどの、トイレの片隅にたたずむ蓋つきのゴミ箱。もっとも、これを“蓋つき”として扱うことができているかは疑問なのだが。

そうして、いつものようにナプキンの山で圧迫されている、その量には不釣り合いな小さな蓋つきのゴミ箱を横目に、父が「ちゃんと捨てろよ。汚ねえんだからよ」と言った。「汚ねえ」そう父は言った。まるで何かから目を逸らさんとするかのように、顔をしかめながら。

使用済みのナプキン、元は私たちの体の一部だったのに汚いものになる

確かに、ゴミは汚い。臭い。目に入れたくない。排除すべきものだ。だから、ゴミなのだ。絶対に日常とは切っても切れないものだけれど、その不要になった不快なものを、日常の表側に出すことを誰もが嫌う。

生理用のナプキンは、普通の排泄物とは違い水に流せないため、“ゴミ”として捨てられることになる。水に流せない。“なかったこと”にできない。誰もが嫌うものになる。

しかし、誰かがそれを直視して、ゴミとして処理するという行動を起こすまで、それはそこに存在し続ける。それは、もともと私たちの体の一部だったものなのだ。

そこにあったのは、自分の体の一部が“汚いもの”として語られる事実、そして“不要なゴミ”として排除されて然るべき、という主張だった。

父は生理ナプキンを「家族みんなに責任のあるもの」と捉えていない

また父は、「ちゃんと捨てろ」とも言った。自分で捨てるというアクションは起こさず、女性の私たちに捨てることを要求した。我が家では、家事は“家族みんなに責任のあるもの”として扱われている。だから、みんなの分のご飯を作るし、自分の服でなくても洗濯物は畳むし、誰が捨てたかは関係なくゴミをまとめる。

しかし父は、使用済み生理ナプキンを“家族みんなに責任のあるもの”としては、捉えていないようだった。「お前らしか出さないゴミなんだから、お前らがなんとかしろ」私には、そう聞こえた気がした。

父は昭和生まれに加え、男性がマジョリティの家庭環境で育ってきた人間だ。だからこそ、女性の面倒臭い部分には踏み込む経験が少なかったのかもしれない。

それでも私は、「お前が捨てればいいんだよ」という言葉を飲み込んだ。こんな小さなことでも、私たち側が傷つかなきゃいけないなんて反吐が出るなと思いながら。