女子校に行きたい。中学受験を控えた小学6年生のある日、私はふと思った。もう15年ほど前のことになるだろうか。

理由はいたってシンプル。男子と一緒にいたくない。ただそれだけだ。

中高一貫の女子校に進学し、女子だけでのびのび幸せな日々を過ごした

小学校高学年の頃、私にとって男子は鬱陶しい以外の何ものでもなかった。何かとからかってくるわ、教室でうるさいわ。ただ静かに平穏に過ごしていたかった私にとって、そういう私なりの理想状態を邪魔してくる彼らはただただ面倒で、一刻も早く離れたかった。

実際そんなことをしてきたのはクラスの男子のごく一部でしかなかったし、ちょっとふざけているぐらいのことだったので、今思えば狭量極まりない。しかし、当時の私はそれぐらいの器しか持ち合わせていなかった。

そういうわけで、私は中高一貫の女子校に進学した。女子校での6年間は、「女子だけ」という私にとって最高の空間で、のびのびと過ごせた幸せな日々だった。

6年もそんな幸せに浸っていたばかりに、大学で共学に戻った時は戸惑いの嵐だった。同年代の男子とまともに話をしたのは、小学6年生が最後。何を話せばいいのか全く分からない。

それに、小学校高学年ぐらいだと男女で一緒に行動することは少なく、お互いを呼ぶ時も苗字で呼び捨てだったのが、私の知らない6年間に何があったのか、男女があだ名で呼び合い、行動を共にしている。完全に浦島太郎状態だ。

大学は共学に入り、「性別を理由に」違和感を覚えることは多々あった

もちろん、ずっとそんな状態だったわけではない。男女両方いる空間にも、男子と話すことにも、次第にある程度は慣れていった。しかし、それでもなお、違和感を覚えることは多々あった。

たとえば、男子の方が多く支払うという現象。入学後しばらくしてクラスの懇親会があったが、ある男子の提案で、会計は男子多めの割り勘ということになった。気遣いであることは承知しているが、私には理解できなかった。

大学に入ったばかりの男女に、何の経済的な差があるというのか。わざわざ角を立てることもないので素直に従ったものの、「あんたらに多く出してもらう筋合いねぇよ……」というのが私の本音だった。

なんとまあ、かわいくない。でも、私にはそれぐらい違和感があった。それ以降も、男子が多めに払おうという場面に遭遇するたびモヤモヤが募るばかりだ。

他にも、学園祭の準備で荷物運びをしている時に「女の子だから……」という言葉と共にすごく軽いものを渡されたり、男子と2人で道を歩いている時に車道と反対側を譲られたり。大変じゃないように、危なくないようにという配慮だとは思うが、重いものが持てないわけではないし、危ない道ならそもそも横に並ばず一列で歩けばいい。

別に男性陣の言動を否定したいのではない。ただ、「頼もしい男と、かよわい女」みたいな因習的なイメージへの囚われが、日常の何気ないところにある。私にはそんな気がしてならなかった。

女子校は男女の区別の上に成立しているわりに、性別に囚われず自由

今思うと、女子校ではそういう「男らしさ」「女らしさ」に縛られることがなかった。普段の学校生活も、文化祭も、体育祭も、すべて女子だけで回す。力仕事だろうが何だろうが、「これは男の仕事で、これは女の仕事」という区別はない。

異性なるものの目を気にすることもない。「女子校あるある」で、中身がおっさん化するという揶揄を目にすることがあるが、それは世間の押し付けてくる「女らしさ」という縛りをかなぐり捨てた結果だともいえる。

女子校は男女の区別の上に成立しているわりに、「男」「女」に囚われない自由さがある。そういう空間にいて、かつては男=悪者だと思っていた私も、男女それぞれ特定のイメージが押し付けられることに疑問を抱くようになったのかもしれない。

おかげで世間的には「かわいくねぇやつ」になっただろう。けれど、それはそれで構わない。女子校で培った「かわいくなさ」は、私にとって大切なものであり、これからもそうであり続けるだろう。

だから、女子校に行ってよかった。卒業してもう8年ほど経つ今、やはりそう思う。