私は高校まで共学に通い、現在は女子大の1年生として勉学に励んでいるのだが、共学と女子校の違いはそれほど感じない。
よく「共学は恋愛のいざこざがある」「女子校は下品」などと聞くが、これらはイメージに過ぎないと思う。実際私の周囲の浮いた話は数えるほどだったし(そもそも異性愛者だけではないから「男女関係」に限ったことではないし)、共学でも毎日のように下品な話で盛り上がっていた。

女子校と共学、両方を経験してわかった決定的な違いは「先生」

ただ、一つ決定的な違いがある。それは教育者である先生だ。無論、今まで出会った先生は一人一人違うのだが、共学では先生の発言に首を傾げることが多々あったのに対し、女子大では今のところそのようなことが一切ないのだ。
社会に蔓延る理不尽に気がつくようになり、またジェンダーに関心を持つようにもなった高校生のときには、常に違和感を抱えながら学校生活を送っていた。そんな私が高校1年生の頃、全校生徒が集まる場で女子のスラックス着用の許可が下りた。遅いと感じつつも、選択肢が増えるならいいか、と生徒部の先生の話を聞いていた。
だがその直後、先生は「日本ではまだ一般的ではない」として男子のスカート導入を見送ったと説明した。確かに、唐突に「男性を思い浮かべて」と言われて私の頭の中に出現するのはズボンを穿いた男性だ。とはいえ「一般的ではない」と言われると、「生徒の自由より世間体なのか」と思ってしまう。
にもかかわらず、私は何のアクションも起こすことなく卒業してしまった。もしあの場で失望した生徒がいたら、もし制服を理由に入学を諦めた中学生がいたら、と未だに自責の念に駆られている。

私が通う女子大ではジェンダーバイアスのある先生に会ったことがない

また、ジェンダーバイアスに基づいた言動をとる先生が少なくなかった。中でも、電車内で化粧をする女性を批判した際に「女の子は綺麗になりたいのかもしれないけど」とセクハラとも受け取れる発言をしたり、妻の容姿を半笑いでけなしたりしていた男性の先生には、何度憤ったか分からない。女の子(個人的には成人女性に向かって使うのは抵抗がある言葉だ)に綺麗であることを求めているのは男性優位社会なのに。
その先生に苦手意識があった私は反論する勇気を持ち合わせておらず、シャーペンを握り締めて怒りに震えることしかできなかった。
一方、現在通っている女子大では、ほぼすべての授業でジェンダーの視点からの話題が出る。先週は、生理の貧困についての話を聞き、性別役割分業について考え、LGBTQ+に関するビデオを鑑賞し、男女の賃金格差がテーマのパワーポイントを作成した。
社会学系の学部であるため、当然といえば当然なのかもしれない。それでも、高校時代のような不快な思いをしないことは、私にとって大きな衝撃なのだ。

「自分の生きたいように生きる」学生が集まる女子大で過ごした先に

そしてそのような先生のもとで学ぶのは、メンズ服で全身をコーディネートしていたり、「愛されヘア特集」といったような記事にはまず載らない奇抜な髪色をしていたり、将来管理職になることを夢見ていたりと、自分の生きたいように生きている学生だ。
ここでは「一般的」であることとか、「女性らしさ」とか、そのようなものは求められない。「女性が輝く」という言葉は政治家のおじさま方(男性だけではない)が乱用したせいで薄まったし、そもそも「女性が」とあたかも女性に問題があるかのような表現をする時点でジェンダー不平等の是正を本気で目指しているようには見えない。
しかし、女子大では文字通り「女性が輝いて」いるのだ。先生が違えば環境も違う。環境が違えば学生も違う。
共学で沈黙を守ってきた私も、この場所で4年間過ごせばおかしいことにはおかしいと声をあげられる、本当の意味で輝く女性になれるかもしれない。