ネットストーカーがやめられない。
とはいっても、住所を特定したり、交友関係を把握したりすることはしない。私はただ定期的に初恋の人のアカウントをフォローせずに覗いている。それでも十分に“気持ち悪い”行為だと自覚もしている。
友人たちが発情した中学時、私は彼女たちを気持ち悪いと思っていた
私が把握しているアカウントはTwitterとInstagramの2つ。その人は、先にTwitterのアカウントを作っていた。投稿内容は、部活の愚痴とか。
今から5年ほど前にInstagramアカウントを新しく作り、その後Instagramを主にして投稿している。投稿頻度は少なく、月2、3回の頻度で検索して覗いても何も変わらないことがほとんどだった。しかし、私はネットストーキングをやめられなのだ。
中学生のときの話をする。中学生の頃から周りの友人たちが発情しだした。誰がかっこいいとか、付き合っただの別れただのの話題は、彼女たちの間で大いに盛り上がった。
私はそんな彼女たちを内心、冷めた目で“気持ち悪い”と思っていた。異性に興味を持つ彼女らに何も共感できなかったのだ。
性欲の錯覚。種の繁栄。動物の本能。それらしい言葉はすらすら出てきた。そんな中、一番仲が良かった友達は処女を卒業した。当時“早い”子はまだ少数派ではあったかもしれないが、焦ったことを覚えている。
本能に従って、「恋」する人が羨ましい。私は動物になれなかった。「動物になりたい」と思っている。無理にでも彼氏を作ろう、もしかしたら私も人を好きになれるかもしれない。
私は、母から「純粋で清楚な娘」であることが求められるのだと悟った
しかし、中学生の私には彼氏を作ることはできない理由があった。それは、母の存在だ。よく「母と娘問題」と聞くが、その類の話になる。
私には当時、高校生の兄がいたのだが、その時期彼女をよく家に連れてきていた。そして、彼女が家に遊びにきている時、決まって母の機嫌は悪かった。
「『お邪魔します』も言えないのよ、あの娘」。「靴ぐらい揃えて上がりなさいよね」。本人たちに言えない代わりに、私に愚痴を漏らす。
「物音が聞こえないと思ったら寝てるのよ、あの二人」。母が兄の部屋の物音を聞いていたことが、“気持ち悪い”。そして、賢い私は母が兄の彼女を嫌っているのは、“ただ単に行儀が悪いからだけではない”とわかっていた。
同時にこの家にいる間、私は母に色気づいたと思わせないことが賢い生き方であることも理解した。純粋で清楚な娘であることが求められる。
だから中学生の私は、仲の良かった一人の男子からの告白を断った。「良かったら」と誘われた映画を「興味ない」と言った。
怖かった。母か、その男子、はたまた別の何かが怖かった。好きになりたい。好きになれない。そもそも私は人を愛せるのか。かつて自分が“気持ち悪い”と罵った動物になれるのか。ねじれた思考が頭を占拠した。
彼の誘いを断って、私は動物になれる機会を見失ったのだと思っている
その後、彼とは疎遠になった。私はただ誘いを断ったことを彼が怒っていないかが、気になった。私は検索したのだ、彼のTwitterのアカウントを。私に関しては特に何も言っていなかった。部活とか、漫画とか好きな女優のことをポツポツ投稿していた。安心した。
しかし、罪悪感は酷く胸に溜まった。彼のことを好きだったのかと聞かれれば、好きではなかった。でも、好きになれるかもしれなかった。私は動物になれる機会を見失ったのだと思っている。
私にとって彼は可能性だった。だから成人した今になっても彼のアカウントを見に行ってしまう。アイコンに映る彼は小さく笑っている。
もう彼女を作ったのかな。経験はどれくらい積んだのだろう。今頃仕事はをしているのかな。ご飯は何を食べたんだろう。
かつて彼を袖にしておいて何をしているのかと言われたらそれまでの話だ。自分でもそう思うのだから。それでも私にとって「恋」というのは憧れてしまうもので、手を伸ばしたいと思うのだった。彼のSNSを見ることで、動物になれる可能性を思い出す。
そして、今も私は「恋」を知らない。気持ち悪くなれるその日まで。