21年間生きてきて、最も多く喧嘩してきた相手は母親だった。
今となっては笑い話になっているが、当時の私は自分の気持ちをわかってほしくて、その一心で思いをぶつけていた。あまり思い出したい過去ではないが、今回のエッセイを機に振り返る。

中学から高校へかけて反抗期真っ盛りの私は、悲劇のヒロイン状態

中学時代から高校時代へかけて、私は反抗期真っ盛りだった。
私が幼稚園生の頃に両親が離婚したため、物心ついた時には既に母子家庭で、いわゆる鍵っ子だった。家に帰っても「おかえり」と返してくれる人がいない。
学校であったことを話す人がいない。そのことを特別寂しいと思った憶えはないが、どこかで不満に思っていた自分がいたのかもしれない。

道行く親子を眺めては、なぜ私の話を聞いてくれる人はいないんだろうかと嘆いていた。
当時はかなり内弁慶で内向的な性格だったため、家の外で本音を話すことがほとんどなかったということもあり、まるで悲劇のヒロイン状態である。
モラトリアム期の脆い心模様は極端で、いっそ死んでしまいたいなんて本気で思ってしまうほど思い詰められていた。
それでも「自分の話を聞いてほしい」だなんて、周りの誰にも言えなかった。両親が離婚した理由は私なりに理解していているからこそ、女で一つで育ててくれている母に余計な負担をかけたくなかったのである。

余計な負担をかけたくないと思いつつ、私は母にぶつかってしまった

「私の話を少しは聞いてほしい」と言いたいけど、言えないその葛藤が、言葉に棘となって現れた。余計な負担をかけたくないと思いつつ、どうしても納得できなかったのだろう。
ここにはとても文字として興せないような汚い言葉を使い、重箱の隅をつつくような思ってもないことばかり並べて責め立てた。初めて見せる娘の姿に、母はどんな反応を示すだろうかと母の様子をおそるおそる伺う。

するとどうだろう、なんと母は私のぶつかる力と同じ力でぶつかってきたのだ。
これにはかなり面食らった記憶がある。私と母は何十年も年が離れているのに、しつけというよりは喧嘩と表現する方が相応しいようなやりとりだった。
単に大人気なくて売られた喧嘩は買わないと気が済まないのか、私の思いを受け止めなければという母としての使命感に駆られたのかは未だ定かではないが、私の母に取り合わないという選択肢はなかった。

夜通し喧嘩して、泣き疲れて学校に遅刻して、遅刻したことを母のせいにしてまた喧嘩しての繰り返し。時には家出をし、家を閉め出されたこともあった。

母だったからこそ、私は「全力で」ぶつかることができたと思っている

そんな私たちの喧嘩は数年単位で続いたが、歳をとるにつれて私はいくらか精神的にも大人になり、時間と共に沈静化した。
現在はお互い離れて暮らしており、「これくらいの距離がちょうどいいね」なんて笑って過去を一緒に振り返られるほどの仲となった。

こうして振り返ると、自分はなんて子供っぽい子供だったのだろうと申し訳なくなるような話である。
雨降って地固まるなんて言葉で片付けてしまったら、母は怒るだろうか。

しかし、母からすれば迷惑極まりない話だが、そんな母だったからこそ私は全力でぶつかることができたと思っている。
あの時、私を蔑ろにせずに受け止めてくれる人がいたから今の私がいる。母との関係性が構築されている。次会う時は、母の大好きなケーキでも買って行こうと思う。