私の両親は私に、女の子らしくしなさいなんて言ったことはなかった。
マウンテンバイクに乗りたいと言った時も快く誕生日プレゼントに買ってくれたし、男の子が好んで履くようなデザインのズボンをねだった時も快く買ってくれた。
私は薄ピンクのニットも、コスモスが描かれた花柄のワンピースもとても好きだったけれど、同じようにマウンテンバイクが好きだったし、ボーイッシュな服も好きだった。自分がいいなと思うものに理由もなかったし、規則性もなかった。
人を好きになるのも性別は関係なくて、小学生の頃に、転校してきたある女の子をすごく好きになったことがあるし、クラスの人気者の男の子を好きになったこともあった。
どれもこれも私にとっては、何か好きになるきっかけがあって、好きになると言ういたってシンプルな出来事だった。
男の子にモテるために、女の子らしくあることを心がけるようになった
中学生になり、高校生になると少しずつそれが変わっていった。
高校のクラスでは「A男くんカッコよくて好き、付き合いたい!」とは言っても、「B子ちゃん可愛くて好き、付き合いたい!」と言う人はいなかった。その時、女の子を好きになるのは変なことで、男の子を好きになるのが普通なのだと周りを見ていて気がついた。
同時に女の子らしい服装をしないと男の子にはモテないのだと知った。それは私に、男の子にモテないと女として生まれた意味がないのかもしれない、という気持ちにさせた。
それからは、ティーン雑誌を片手に流行を追いかけ、女の子らしい服装を心がけようとしたけれど、バイトは禁止で、お小遣いも少ない私がそんなにホイホイ服を買えるわけもなく、雑誌のモデルさんが着ているような服は少ししか買えず、おしゃれもできず、そんな自分に自己嫌悪した。
おしゃれに自信が持てないのに、男の子にモテるとも思えず、誰かに好かれるはずがないと思いさらに自己嫌悪に陥った。眼鏡をかけていないサラサラのストレートヘアーで、流行りの服を着ていて、女性らしく胸がある色白の可愛い女の子が羨ましかった。
女の子らしくなって円滑に進む人生。それと引き換えに失った私らしさ
大学生になり、眼鏡をコンタクトに変えた頃から、私を見る周りの目が少しずつ変わっていった。私も憧れの女の子になれることに気がついた。バイト代で女の子らしい服を買い、髪を染めパーマをかけると、私は憧れていた私になれた気がした。
当時気になった男の子からも好意的に受け入れられた。可愛い女の子でいるとこんなにも気分良く過ごせるのだと気づいた。女の子らしい女の子は人生が円滑に進む気がした。
だから、私はそうあろうと常に努力し続けた。そして、いつのまにか私は私でなくなった。
私はなんなのだろう?
私らしいってなんなのだろう?
気がつくと、まるで記憶喪失のように自分が誰なのかわからなくなってしまった。いつのまにか、私が好きなものが選べなくなっていて、周りにいる他の誰かが好きなものに敏感になっていた。他人からどう見られるか、自分がどう見られたいか、そればかり考えていた。
まさに理想のわきまえた女だった。
そのことに気づいた後もしばらくは自分が好きなものを思い出せなくて、自分がどうしたいかがわからなくて、どんどん自分への自信を失った。
大人になって肩の荷が降りた。クールな私で生きる人生の始まり
それから数年経ち、ある時、友人の何気ない言葉がそんな私を変えてくれた。
「いいよね」っていう、たった4文字の言葉が。何気なく私が着ていたセーターを褒めてくれた、「そのセーター、オシャレだね」って。
モスグリーンのVネックの無地の男物のシンプルなセーター。
そうだ、思い出した。このセーターは色がいいなと思って買ったのだ。そうか、私はこれが好きなんだと、思い出した。
それから少しずつ、私は好きなものを思い出した。どこまでもクールなオールブラックコーデに、大ぶりのイヤリング、男性用のパーカーにニット。可愛い女の子にはならないクールなスタイル。
大人になって良かったことがある。それは『可愛い』を目指さなくてもいいこと。大人になって良かった。やっとクールが似合うようになったのだから。今は思う存分、クールを選び取っている。
まだ、服装しか選べていないけど、考え方も生き方も私が好きなクールでいきたいな。私がクールだと思うものや人や出来事を素直に好きだと言えるクールな人になりたいな。