社会人一年目。慣れない仕事に悪戦苦闘し、任された仕事への責任と重圧を感じながら、上司のヒステリックな言葉に傷つき、隣に座る先輩の機嫌を伺う毎日。
私が我慢すればいい。
職場内をかき乱してしまうかもしれない。
社会人にとって、よくあることなのかもしれない。
ただただ自分の我儘で甘えだ。
そう思うと、誰にも頼ることができなかった。
何より「職場内での愚痴は、職場の人には話さない」という、自分の頑固なルールがあり、同僚にも一切相談をしていなかった。

表面張力で何とか耐えていた気持ちがついに崩れ、休むことを決意

そして、半年が経った頃、心が身体に追いつかない日々が増えていった。「適応障害」と診断を受けた。現在も療養をしている。
始めは、仕事を継続しながら通院をしていたが、症状はエスカレートするばかりで、職場に着くと足がすくむようになり、仕事を続けることが困難になっていた。

休むことを決意したのは、パニック発作を起こしたことだった。
発作が起きた時、コップに毎日雫が溜まっていき、表面張力が働いて何とか耐えていたが、ついに水が溢れて崩れたようだった。落ち着いてからも、1時間程は声が出せず、辛かった。
翌日、ベッドから起き上がれず、欠勤のメールを送ろうとしたが、パソコンを開けられない状態まできていた。

今考えると、自分が相当参っていたことがわかるが、当時はそれがわからなくなるまで鈍り、当時は職場の人への申し訳なさでいっぱいだった。
後に、「不安障害」の診断も受け、休職期間に入ったが、その間に治ることはなく、約半年で退職をした。
仕事を辞めればストレスはもうなくなる、すぐに治るだろうと思っていた。しかし、そう甘くはなかった。

“仕事”というストレス因子はなくなったはずなのに、悪化する毎日

家から500メートルほどのスーパーまでの道のりが、休憩を挟まないと辿り着けなくなり、カートを押しながら買い物をし、人とすれ違うだけでどっと疲れ、1日のエネルギーを使い果たしていた。
電車の中は周りの人の目や声が怖く、帽子で視界を狭め、イヤホンで音をかき消していた。
夜には毎日、夢を見た。
小学生の頃から大学時代のことまで、時代はさまざまだった。
ただ、過去の嫌な記憶であることは共通していた。忘れ去りたい思い出が蘇り、嫌いな人が日替わりで登場し、夢の中で追い詰められ、絶叫して朝を迎えた。

何も考えずに一人でいると、嫌な記憶が脳内再生されやすく、これは今でもよくある。その度に自己嫌悪に陥るばかりだ。
“仕事”というストレス因子はなくなったはず。なのに、良くなるどころか悪化していく毎日。
そして何よりも、今まで当たり前にできていたことが、できなくなることが辛く、そんな自分が情けなかった。
心身不調を公表した芸能人が、活動を再開すると、どうして自分は良くならないのだろうと焦り、考え込んでいた。
そして、こんなことになるまで追い詰めてしまった自分を後悔し、こうなってしまった自分を、他人のせいにして恨むという負の連鎖が続いていった。

母の前で号泣した日。頼る、甘えるを覚えて私は前よりも強くなった

心が腐り、砕け散っていたある日、私は限界を超えたその先にある限界を迎え、母の前で号泣した。
病気になった自分、何もできない自分が情けないこと、それを他人のせいにしてしまうこと。「こんな人生もう嫌だ」と23歳がまるで3歳児のようにわんわん泣いた。
母は何も言わずに抱きしめてくれた。
そして、「同じ気持ちを感じてはあげられないけど、どんな気持ちでいるかは、わかるかも」と言った。

これまでも母に話すことはあったが、この時が1番心にストンと落ちた時だった。
無理に元気を出す言葉をかける訳でもなく、正直に言ってくれた母の言葉に私は救われた。
そして、理解しようとしてくれた母がいたからこそ私は救われた。
今でも療養中であり、少しずつ良くはなってきてはいるが、今でも調子の波は激しい。
辛い時、自分が嫌になる時は母に話して心を落ち着かせる。
“頼る、甘える”を覚え出した私は、診断を受ける前の私よりも確実に強くなっている。