同じ食卓を囲むときに、皆で同じものを揃って食べるのが、我が家のルールだった。
ばらばらの社会で頑張って生きているそれぞれの戦場から家に戻り、お互いの健闘を称え合うように同じ食卓を囲んで夕飯を食べる。日常の雑談に紛れて苦手な野菜をこっそり姉妹で交換しては、無敵の顔で笑いあう。
また、同時に、外食に出掛けたときには、家族がそれぞれ違う料理を注文することもまた、ルールになっていた。
数種の料理を皆で分け合って楽しむことができるというのも理由のひとつではあったが、誰かの真似をすることなく自分で選びなさい、という両親からのメッセージがより強く込められたルールだった。
ルールを守ることではなく、ルールの意味を理解することが最も大切
子どもの頃のこれらのルールを守るも守らまいも、実のところどちらでも構わなかったのだと私は思う。実際、中学生になる頃には徐々に多忙になり、私は家族の輪から外れた。下宿をし、家族と食事を摂る機会も激減してしまった。
しかし、家族のルールに参画しなくなっても、家族は家族であり、私は家族の一員として大切にされた。
ここで最も大切なことは、家族という小さな社会で培われたルールに宿された意味を理解しておくことだった。自分の力で社会に漕ぎ出していかなければならない、その前に。
大きな社会に出たとき、ただ従順にルールに従い、理屈も知らずに生きていくのはあまりにもリスキー過ぎる。偉い人が決めたことならと理不尽な欲求でもまるごと呑み込むのか、それとも、どんなに立派な重圧がプレゼントされていたとしても、ルールの意味を自分の歯で噛んで味わうことができるどうかを一度、問題を唇に当てて考えてみる必要がある。
反抗期を経て思春期を過ぎ、成人し、今では婚約者さえいても、私はときどきひとりでゆっくりと考えている。
物事の本質を確かめながら味わう時間も、時には大切なのではないか
社会が投げかける問題は日々多くあれど、その全てを我が事のように考えることはできない。
ただ近くに転がってきた、一欠片を観察し、嗅いでみる。観察する。物体がだいたい何の種類なのか推測できれば、口に入れてみるのもいい。他人と分かち合って食レポし合うのもありだ。社会の中で、大人たちは日々を忙しく回転させることばかりに必死になるが、時には食事をゆっくりと摂るように、物事の本質を確かめながら味わう時間も大切なのではないだろうか。
礼儀が重んじられているから育ちの良さをアピールするのではない。他人に不快な思いをさせずに自らも楽しめる心配りができるからこそ、育ちが良くなる。
皆がはずし始めたからマスクを外せるわけではない。コロナウイルスが伝播する確率が減ったから、日常使いのマスクをはずせる国が現れ始めたのだ。
今もまた、ひとりの思考回路の中に食卓を構え、どんな皿や、どんな料理が目の前に載せられているのかを考える。食事を摂る意義から考えてみる。食卓の隅に飾られた花も愛でる。
私は、自らをとりまくルールについて、如いては自分がどう在るべきかを、時間がある限りゆっくりと、スプーンを手に取りながら考える。