私がヴァイオリンを始めたのは2歳の時だった。最初は母の膝の上に乗せてもらい、手伝ってもらいながら一緒に弾いていたらしい。
気づいたらヴァイオリンは自分の隣にいつもいた。
けれど、練習は嫌いだった。
「練習しないなら辞めなさい。そんな甘い道じゃないから」と、ヴァイオリニストの母とテューバ吹きの父2人から散々言われて、辞めようと思ったことも何度もあった。

一度あまりに練習しないので、母にヴァイオリンを隠されたことがあった。
私も本気で辞めようと思った。なのに夢の中でありとあらゆる人に「本当に辞めていいの?」と問いかけられ、自分の泣く声で目が覚めて、結局2日目には「やっぱり続ける……」と母に伝えた。

ヴァイオリニストとして生きていく決意をした、イタリアでの音楽祭

自分の中で、ヴァイオリンという存在が単に離れられない存在なだけで、好きじゃないのでは……。考えることが度々あったが、はっきりとヴァイオリニストとして生きていこうと覚悟したのは小学校6年生の夏のことだった。

それは、南イタリアのカンナという小さな村で行われる音楽祭に、母に連れられて行った2度目の夏だった。
ドイツやカナダ、中国など世界中から集まった演奏家たちが、お酒や料理や海を楽しみながら、演奏会を現地で行う、といったアットホームな音楽祭だ。
英語もろくに喋れない私にも、同じように親に連れられてきた子供達もたくさん遊んでくれ、大人達は優しく、そして弾く機会を与えてくれた。
ぼこぼこした石畳の道を登って、あまりの暑さに断水された、水の流れない噴水を通り過ぎ、レンガで作られた古い家々を超えた先にある、“パラッツォ”と呼ばれる白い教会のような場所で、私は母と共にバッハの2台のヴァイオリンのためのコンチェルトを弾くことになった。
澄んだ紺色の空に、乾燥した気候のおかげで日本よりも遥かに多い星が見え、オリーブの木が風に揺れる気持ちの良い夜だった。

初めての人を感動させる経験に喜びと幸せを感じ、覚悟が固まった

ステージに出て、お辞儀をした時点ではまだ緊張で手も足も震えていたが、母と共に演奏しだした途端に緊張は消え去って、乾燥しているおかげで教会中によく響く自分たちの音を聴きながら、今まで経験したことがないほどの幸せを感じた。
終演後、客席で聴いていた女性に「感動して涙が出た」と言われた。
本当に、彼女の瞳は濡れていた。
当時まだ12歳だった私は、こんな子供でも人を感動させることができるのか、そして感動してもらえるということが、こんなにも喜ばしい、幸せなことなのかと思った。
この出来事のおかげで、自分の中でヴァイオリニストとして生きていきたいという覚悟が確固たるものとなった。

覚悟ができたおかげで練習にも身が入るようになり、何とか音楽高校に入学したが、同じように演奏家を志す人の多さに驚き、自分のポジションと生き方を確立すべく試行錯誤を重ねた結果、まさに出る杭は打たれ、嫌な思いもたくさんすることとなった。
ただ、自分の核となる「人を感動させられる人間になりたい」という思いが強くあるおかげで、周りに何と言われようと折れるほどまでは傷付かずに済んだ。

一人でも笑顔にすることを目指して、仕事を愛し、努力する

このコロナ禍で、音楽というものがいかに不必要で需要のないものかを思い知ることとなったが、人の心を動かすことは、人間にしかできないことなのだと思う。
私の仕事は人に必要とされているものでもないし、なくても困らないものではあるが、私にしか、音楽にしか出来ないことがあると信じている。
例えば言葉も人の声も聴きたくない時。どんな言葉にも悪意や怖さを感じてしまうような時。
言語を超えて、人と繋がりたいと思った時。
辛い時にそっと寄り添えるような音を出せる演奏家でありたいし、非日常や情熱を感じさせられるような演奏家でもありたい。

聴いてくれた人のうち一人でも、笑顔になれたり、癒されたと思ってくれることを目指して、その為には普段一般の人が驚くような安いお金で働くことになろうが(時給計算してしまうと驚くほど安い)、日々の練習が辛かろうが、乗り越えていけるのだと思う。

そして何より努力し続ける自分に自信と誇りと小さなプライドを持って、自分を好きでいられるために、私は私の仕事を愛して全力で(たまに力は抜きつつ)頑張ろうと決めている。